いろいろ


西日本の豪雨、たいへんなことになりましたね。
ナガサキの集中豪雨以来の被害だとニュースで言ってましたが、あの時わたしはナガサキにいました。
土曜日でした。
私は製鋼所跡地にある某センターで働いていて、土曜日は2回に1回がお休み。
あの日は仕事に出る土曜日。半ドンなんで、仕事終了後、街でレコード屋をやってた友人の店に遊びに行くか、あるいは映画を観て、それから諫早の家に帰宅するのが習慣だったんだけど、あの日は激しい雨が降っていて、「今日はもう帰るか」とすぐにバスで帰宅。
それが最後のバスでした。
翌日の朝、職場に電話をしたら通じ、事務所が無事だったことを確認、東京の本部と電話が通じないというんで、私がそれを本部に知らせたのでした。
喜ばれました。

道路が決壊して、しばらく仕事には行けず、その後なんとか仕事に出られたときは、ナガサキの従妹んちに泊めてもらい、一緒に混雑する銭湯に行ったのも思い出します。

私は水害がなければ生まれていません。
その話は以前にこの日記に記したのでもう書きませんが。
http://d.hatena.ne.jp/shohoji/20140628/1403945348

大雨に縁があるんでしょうか。

メキシコにいた頃も、旅先のアカプルコとサンブラスで、ちょっとした水害に遭いました。
ベルギーで暮らし始めてからも、プロヴァンスに旅行に行ったら、訪れた町が次々に、私たちが発ったその翌日、水害に見舞われました。

何だか私自身が、水に関しては疫病神っぽいですね。
本人だけはいつも無事だし…。


日本の某首相たちは、もうずっと警戒警報が出されていたのに宴会をやっていたそうですね。
しかも、オウム事件の7人をいっせいに死刑執行の前日でしたか。

この死刑執行、こちらでもずいぶん報道されました。
アベ政権下での執行、29人に上る、今までの政権では最も多いと。

今回はあっちこっちから実況で執行が伝えられたそうですね、まるでスペクタクルのように。

中世かよ、と思ってしまった。

死刑が、見せしめと見世物の両方の意味を持っていた時代みたい。


私はオウム事件が起こった頃はもう日本にいなかったし、オウム真理教ってのも事件で初めて知りました。
なんてひどい事件だろうと思いましたが、同時に、自分と犯人たちは紙一重の違いしかない、とも思いました。
でも、この紙一重が、実はとても大きい、それっていったい何なんだろう、と、ずっと考えてもいます。

イスラム国も、オウム真理教に似てると感じています。
オウム真理教の国際版というかなんというか…。

見世物としての死刑は、処刑される人間の、ハンナ・ア―レントの言うところの「陳腐な凡人の悪」を覆い隠して「特別な悪人」に仕立て上げ、それを見物する人間が「ああ、よかった、私はフツーの側の人間で」と安心できるための装置かもしれない、と思いました。


ということで、今朝一番に読んですごく興味深いと思った記事のリンクを貼り付けて、今日は日記おしまい。

https://spinou.exblog.jp/29607487/

ウィーンに行ってきた


月に1回くらいはブログ更新しようと思っていたけど、もう6月になっちゃいましたね。

今年はエゴン・シーレの没後100年ということで、ウィーンのレオポルド美術館では、彼の特別展が行われています。

毎年うちに遊びに来てくれる大学時代の友だちがいます。
今年も10月にやってきます。
彼女が来るたびに、1カ所か2カ所、一緒にどこか別の街に出かけるんですが、今年はプロヴァンスへ1週間足らず出かけるのは決定していて、すでに航空券も宿泊の場所もゲット。(何でも早くやっておいた方が安いので・笑)
上述の展覧会は、その友達が開催を教えてくれたので、はたしてこれも一緒に行くかどうか、下見に行ってきたのです。

ウィーンを訪ねるのは3回目。
芸術の都と呼ばれるだけあって、見るべきものが多すぎ…、とにかく今回はシーレ展に的を絞りました。
欲張りすぎると、オバサンは疲れてしまうので。
ブリュッセルを6月1日早朝発ち、翌日の夜戻るというフライトで、まるまる二日間楽しむというプログラム。

1日朝10時前には街に着いたので、予約を入れていたホテルに、持ち歩く必要のないものを預かっておいてもらおうと行ってみると、もうチェックインしていいよ、とのこと。
親切。
古い建物で、部屋もすごく狭かったけれど、場所がすごくよくて大助かりでした。
部屋に荷物を置いて、さっそくお出かけです。

アルベルティ―ナまで徒歩3分。
以前デユーラーのデッサンを見たいにもかかわらず、入館するヒマがなかったので、今回は行こうかな、と、レオポルド美術館へ行く前に訪ねました。
結局3時間以上も居座ってしまった。

ベルギーは、フランス革命以前オーストリア大公が治めていたので、そのあたりのかかわりも含めて、なるほど、おもしろかったです。
見たかったデッサンはすべてが展示されているわけではないし、オリジナルは痛まないようにしまってあるのでファクシミリ、だけど、ルーベンスのデッサンに初めて見るものがあるなど、それはそれでとてもよかったです。
それに加え、とても見ごたえのあるキース・へリング展やモネからピカソまでの特別展などなど、なかなかのものでありました。

そして軽くランチを済ませた後、いざ、メインの目的であるレオポルド美術館へ。

シーレ展、すばらしかったです。
ずっと前から大好きなので、今までもかなりの作品を見てきたけど、今回のように体系的な展示の仕方をしたものは初めて。
「子供」「母」「エゴ」「スピリチュアリティ」「ポートレート」といったテーマごとの展示、彼の直筆の詩や手紙、写真などなど、シーレの世界にどっぷり浸れるものでした。

顧客を意識して「売る」ために描いたのでなければ、当時の多くのアーティストのように、「社会問題」にコミットしたわけでもなく、ひたすら「自分自身のみ」に向かった人だと思っていたけど、「自由を求める人たちのために」という彼の詩の中の言葉や、その時代がどのような時代だったかを考えたりすると、ただ自分の世界に閉じこもっていたわけではないんだ、と思えてきました。
(それに、まだ彼は20代の若さだし。)

作品は好きだけど、ご本人さまとは仲良くできないだろな、なんて思ってきたけど、そういうこともないと思えてきたり。

1910年の、ストライプのシャツを着た自画像、グザヴィエ・ドランみたい。(ドランの作品、les amours imaginaires だったか、主人公か誰かの部屋に、たしかシーレの絵が飾ってあったと思う)

ドランみたい


この日は閉館時間までに、他の展示どころかシーレ展も全部鑑賞できなかったので、翌日も開館される時間に即入場して、閉館時間までたっぷりレオポルド美術館で過ごしました。

美術館のカフェは、ギョーザ・ブラザーズとかいう会社がやっていて、寿司やギョーザに加えてカレーライスまでありました。
私はカツカレー食べちゃった。このカツはシュニッツェル!(笑)

もうたっぷり過ぎて疲れちゃったんで、帰りの飛行機に乗るまでビールかワインでも飲んでゆっくりしよう、と思っているところへ、なんと、航空会社から、「フライトがキャンセルになりました。詳細については電話してください」という恐るべきSMSが!!!
電話するも混んでいて係の人がいつまでたっても出ない、これではラチがあかないと、空港行き電車の駅にある航空会社のカウンターへ。

そこでささっとフライトの変更をしてくれました。
ミュンヘン行きに乗り、そこからブリュッセル行きに乗り換えることになったのです。

しかし、乗り換え時間がほとんどないというのに、ミュンヘン行きのフライトが遅れまくりです。
係の人に、大丈夫かなあ?と訊ねると、とにかく到着したら、セキュリティチェックも何もないから、ブリュッセル行きフライトのゲートまで走れ、と…。(苦笑)

同じ目に遭ったのは私だけでなく、あと少なくとも5人はいて、また例によって同じトラブルに見舞われた者同士のソリダリティも生まれ、それなりに楽しかったです。

乗るはずだったブリュッセルエアラインは、こういう短いフライトだと飲み物も食べ物も出ないのですが、ミュンヘンまでのオーストリア航空ミュンヘンからのルフトハンザ、いずれもうんと短いフライトなのに、スナックが出てワインが飲めたので、結局、フライト変更でラッキーしちゃった呑み助オバサンでありました。


というわけで大満足な私、シーレ展の展示物にはいくつか入れ替えも行われるそうだし、10月に友達が来たら、今度は一緒に行こうと、帰宅後即フライトとホテルをゲット。

なんて楽しい余生でしょ。(笑)

第1次大戦中、世界1周の旅をしたベルギー兵士たちのはなし


今、数日後に控えた仕事を前に、戦争の勉強に打ち込んでます。
戦争史好きな方のご案内をすることになるらしいので、
ある程度のことを把握しておかないといけないから。

そんな話を長女としていて、彼女から教えてもらった話。
なんともベルギーらしいシュールな話なので、
書き留めておこうと思います。

1915年、第1次大戦のさなか、総指揮官である当時の王様、アルベール1世から、
東部戦線に送られたベルギーの装甲車部隊、
1917年、引き上げてこいという命令が下った時にはキエフにいて、
その時点では、西の方の来た時の道は、
ドイツ軍・オーストリア-ハンガリー軍、さらにはロシア革命故に通れず、
反対側をグルーンと、世界1周して、
1918年、ほとんど戦争が終わった頃、
ようやくボルドーにたどり着いたんだそうです。

シベリアを横断、ウラジオストックから米国の船に乗ってサンフランシスコに上陸。
陸路NYへ。
米国はドイツに対する連合国の戦いぶりに盛り上がっていたので、
大歓迎を受けています。
そして1918年5月にNYから船に乗り、1918年6月にボルドーに到着しています。

リンクをふたつ貼り付けておきます。

仏語ですが、彼らの旅のルートや写真といったものもあるので、
よかったら見てみてください。

http://connaitrelawallonie.wallonie.be/fr/histoire/atlas/le-tour-du-monde-en-guerre-des-autos-canons-belges-1915-1918#.Ws4AKJcuBPY

http://www.cafard.eu/sites/default/files/news/attachments/Pers%20-%20FR%20-%2003.04.15%20ACM%20dans%20JOUNAUX%20de%20GUERRE.pdf

WIKIの記事も貼り付けちゃおう。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Autos-canons_belges

「ヒーロー」について考えている私


先月23日に、フランスのカルカッソンヌの近くの小さな町で、
(以前、家族でピレネーの山奥に住む友人を訪ねるたびに、このあたりはうろうろしたので、町の様子もすごくよくわかる…。)
テロリストがスーパーマーケットを襲い、そこにいた人々を殺したり、人質にして立てこもるという事件が起きました。
そして、丸腰でその人質の身代わりになり殺されたアルノ―・ベルトナム中佐のことも、日本で報道されたのではないか、と想像します。

この方をヒーローとして、フランスが国をあげて讃えました。

そこで感じたことふたつ。

フランスのために、共和国のために、と強調されることへの違和感。
この方はきっと、異なるコンテクストの中でもきっと、自分を犠牲にしてでも他者の命を救うことをいとわない人であったに違いないと思うので。

それと、ヒーローという言葉の意味。
日本語だと「英雄」と訳されるのを覚えていたんで、もしかしたら、ヒーローはヒーローで、日本語の「英雄」とは似て非なるものなんじゃないか、ということ。

ベルトナムさん、のどを掻き切られて亡くなったんですね…。
むごいことです。

士官学校をトップで出られた軍人さんであるこの方のお母さんは、事件の状況を知り、身代わりになったという人物は、自分の息子に違いない、とすぐに思ったそうです。


というわけで、ああでもない、こうでもないといろいろ考えていたところ、arteの28minutesでも、「ヒーロー」について、いろんな話がされました。
ああ、私がこの言葉が気になったのは、当然だったんだ、と思ってしまった。

https://www.arte.tv/fr/videos/075223-151-A/28-minutes/

いつも読ませてもらっている、竹下節子さんのブログでも言及されていました。

https://spinou.exblog.jp/29395618/
https://spinou.exblog.jp/29398853/
https://spinou.exblog.jp/29401720/

それに、毎週視聴しているビデオニュースドットコムでも、「英雄」の話。
今回は5金スペシャルなので、無料で配信されています。

ここでも、きっと宮台さんの言うところの日本語の英雄という言葉の意味と、ヒーローという言葉の意味に、違いがあることがかかわっている気がしました。

http://www.videonews.com/marugeki-talk/886/

実はこの前書いた記事に、暦を一周して人生のオマケ部分スタート、と書きましたが、「楽しむぞ」というのももちろんだけど、万が一、テロや天変地変に遭遇したとしたら、オマケ状態の自分がまっさきに、自分の命はリスクにさらしてでも、周りの誰かの命を救わないといけない、などとも思ってます。
実際にそういう事態になったとして、小心者の私が、はたしてどこまで実行できるか、はなはだ疑問ではあるのだけど。
だから、何か起こるたびに、もし自分だったら、と、脳内シミュレーションをやったりしているのでした。

そういう風なので、フランスでの事件は、私にとってすごく大きかった。

もうずいぶん前になりますが、米国のアーミッシュのコミュニティの学校で、子供たちが何人も撃ち殺されるという痛ましい事件が起こった時、年長の女の子が、年下の子供たちを守るために、「私を先に撃って」と進み出て最初に撃ち殺されるということがありました。

そういうことも思い出したり…。

とりとめなくいろんなことが頭と心に浮かんでくるばかりで、ちゃんと書き記せないのだけど、これからもちゃんと考えるために、ちょいと記録しておこうと思った次第です。
 

トーナメント@王立アカデミー


昨日の夜、時々講義や講演を聴きに行く王立アカデミーで、ベーシック・インカムについて、賛成・反対に分かれてのディベートがあり、申し込めば聴けるというんで行ってきました。
TVでもライブで放映され、その後はビデオで視聴できます。
(私も映ってるかも・笑)

https://www.rtbf.be/auvio/detail_les-tournois-de-l-academie?id=2323255

双方の意見を聴き、どちらが納得のいく話ができたか、聞いた後に自分のスマホで投票するというものでした。
自分がベーシック・インカムに賛成か反対かではなく、発言者の話について評価してね、ということでした。

今後何回か、同じ設定でテーマを変えて、同様のトーナメントをやるとのこと。

もうちょっとちゃんと記しておきたいけど、今朝ものすごく早くから仕事に出なくてはならず、寝不足で脳みそが働かないので、一応忘れないように記しておこうと思った次第。

ベルギーの王立アカデミーは、マリア・テレジアが創設させたアカデミーがモトで、欧州ではアカデミー・フランセーズに次ぐ歴史があります。
いろんな講義が、登録さえすれば無料で聴講できるという気前のよいものです。
こういうところが、なんともありがたいわあ。

久しぶりの寒さ


ここ数日とても寒い日々が続いています。
ここ何年か、氷点下になることがほとんどない、あまり寒くない冬が続いていたので、すごく久しぶりです。
それでニュースでもさかんに取り上げられていますが、以前はこのくらいの寒さは普通だったような気がするな。
もっとうーんと寒いこともあったし。

それより晴天が嬉しい。
明け方と黄昏時の空の美しさは最高。
マグリットの「光の帝国」そのものです。

でもこんなに冷たいと、野宿者さんたちが凍死しちゃうんで、各地区で寝泊まりできるところに避難させたりしています。
ブリュッセルの地区によっては、こんなに寒いときに野宿するというのを禁止する方針をとり、強制的に宿泊施設に連れて行くところもあり、人の自由をうばうのでは、と、ちょっと問題になったりもしています。

日曜日には、寒い中、政府は難民の人たちにもっと人間的な対処を、というデモがあり、何千人もの人が参加。
私のうちにおいで、と訴える人たちもいます。
(うちの子供も、友人とシェアしている家に、エチオピアの若者を泊まらせたりしていました。)
市民が政府にこんな風に訴えないといけない状況って何よ、と怒っている人も。

https://www.rtbf.be/info/regions/detail_manifestation-de-soutien-aux-migrants-des-tentes-le-long-du-trajet-pour-simuler-une-jungle-de-calais?id=9850308

私はこの日、暖房のきいた快適な自宅でダラダラ過ごしていたので、後でニュースで見て、ちょっと恥じたことでした…。