昨日の日記のコメントから

昨日の日記にmixiで、ニッポン生まれ、ブラジル育ち、米国在住のマイミクさんからいただいたコメントが、私が昨日の日記を書きながら言いたかったことをうまく導いてくれたので、それを今日の日記にしてしまうことにします。

まず、いただいたコメント

>不法移民の問題ですが、根底には人口超過と天候不順による食料需給バランスの失調があげられるかと思います。基本各々育った国に愛着があるものと思いますので、決して豊でなくても安定して衣食住が確保されている環境を放棄することはないと思います。この場合文字通り”死活問題”ともなればで不法移民を選択するしかないケースにいたるのでしょう。ただ現代に置いては、メディア等で情報が氾濫しているので、”死活問題+α”つまりは、より快適な暮らしを求めて不法移民にいたるケースが多いのだろうとおもいます。(アメリカにおけるメキシコ人不法移民はまさにこのパターンです)それでも結局のところは、不法移民は人口超過に問題は根ざしているのではないかと考えています。人口超過は食糧問題だけでなく争いを産む結果にもなります。おそらく(これは私見なので間違っていたらご指摘ください)人間のDNAレベルにてプログラムされた本能に根ざした問題だとおもいますが、ある一定面積において以上の人口密度となった場合、富(食料を含む)の配分が十分でなくなり人間は精神的に不満、不快感を覚えるようになる→種の保存の法則により強い者が弱者を排除がはじまる→戦争や内戦もしくは人種、民族間の差別、支配・被支配を誘発
というフローが成り立ってしまっているように思います。倫理的にこれらのことが”マズい”と誰しもがわかっているにも拘わらず、無意識にその方向に進んでしまいがちなところに事の危うさはあります。
過去の歴史に置いて”自然環境”、”天災”、”戦争”などによってある一定のレベルに保たれてきた人口のバランスが崩れてしまった今、起こるべくして起こっている問題と理解します。個人的に非常につらい現実ですが、アフリカの諸国などで元来出産率が高いのは、生存率が低かったからです。その辺のことを深く考えず”責任感のない人道愛”で、やみくもに生存率を高めてしまった結果が、援助物資なくして生きてゆかれない人々の現状です。人道的な立場を満たすかたちでこの事を解決するのは、正直無理だと思いますが、援助を提供している国々においても自国の食料自給さえままならない状況が訪れようとしている今、いつかあるとき唐突にやめざるをえない状況が起こりうる形の支援を続けることは、人口超過を産むだけの”負のメビウスの輪”を生み出してしまうだけのように思います。悲しい現実はありますが、人は神にはなれない現実をそろそろ人類は理解しなくてはいけないのかもしれません。このコメントに深いを覚えた方がいらしたら、申し訳ありません。戯言とお聞き捨てください 。



私のレス。


いつも考えさせられるコメントをありがとうございます。


>基本各々育った国に愛着があるものと思いますので、決して豊でなくても安定して衣食住が確保されている環境を放棄することはないと思います。この場合文字通り”死活問題”ともなればで不法移民を選択するしかないケースにいたるのでしょう

これです。
私がこの日記で取り上げたかったのは。
これからますます増えることでしょう。
ベルルスコーニは今の方法じゃ追いつかなくなり、国境に1ミリも隙間をおかず武装ポリスを配置して、不法に入ろうとする人を、入国前に皆殺しにするんでしょうかね?

加えて、

>根底には人口超過と天候不順による食料需給バランスの失調があげられるかと思います

このバランスの失調のもとは、はたして天候不順だけでしょうか?

実際は「足りていた」食糧を、ある一定の経済システムゆえに、独占してきたわけでしょう。
さらに、最近のお米や穀類の高騰は、「自動車」を手放したくない人々が、「エコロジー」に「目覚めた」からだと、私は理解しています。

>”死活問題+α”つまりは、より快適な暮らしを求めて不法移民にいたるケースが多い

このプラスαを求めるひとびとを煽っているのは、そういうプラスαをすでに所持している先進国の「快適な暮らし」を享受している「我々」です。
それは、「我々」には許されるけれど、「あなたたち」には許されない、というのは、エゴイズム以外の何ものでもないだろうと思うわけです。
私がこの日記で言いたかったことはそういうことで、もちろん自分も含めての話。

ずっと前に、ボリビアの映画集団ウカマウの制作した作品で、米国の慈善団体が善意で勝手にアイマラ族の女性に避妊手術をする、というものがあり、それを観てたいへんショックを受けました。
こういうあり方は独善なんだと。



しばらく前に、あるマイミクさんから

>Another World is Possible を「もうひとつの世界は可能だ」というのではなく、積極的に『こうじゃない世界はありえる!』というべきではないかと書いておられて、(「もうひとつの世界は可能だ」という表現をよく使ってしまう私も)ああ、なるほどなと思いました。
『こうじゃない世界は不可能なんです。この世界は、仕方ないんです』に対して、『可能だよ!』『仕方なくないよ!』と反撃したいという

と教えていただきました。


神さまにはなれなくても、「こうじゃない世界」は作っていけると思いますが・・・。

ひとりひとりが暗黙の大前提から自由になって、なんでもいいからひとつでも手放す覚悟さえすれば、と思うんですけれど。


コメントをくださったマイミクさん、ありがとう!