赤塚不二夫が亡くなって、オン・ライン新聞にはそれに関する記事がいくつかあり、読むと懐かしいのと寂しいので、ヘンな気分になります。
私が小さい頃は、貸本屋というのがあって、兄が借りたり、わたしが借りたり、そうやって、この手のマンガをほとんど全部読むことができたのです。
貸本屋さんへ行く道々、貸本屋さんで本を選ぶこと、本を抱いて家へ帰る道々、そういう風景がとても懐かしく思い出され、いとおしいような、泣きそうな気持ちになったりします。
思いでと結びついた人が亡くなるたびに、その人が関わる事項の入る思い出箱には、「これでおしまい」とふたをするような、そういう感じ。
昨夜はものすごい雷雨でした。
キャンプでフェスティヴァルを楽しむ子供たち、ひどい目にあったことでしょうが、無事なら、それもまた楽しい思い出になるんでしょう。
今日帰ってきますが、汚いでしょうね、持ち物も本人たちも・・・。
話はかわり、ニッポン語というのは、「あっち」と「こっち」、自分の属さないグループと属するグループを、いつも意識しながら話す言葉ですね。
こんなこと、もしかしたらあたりまえのこととしてみなさん理解されているのかもしれないけれど、ひとりでボーっといろいろ考えながら、そういうことに思い当たり、ニッポンの「カンタン2分割思考」の謎にどうしてもこだわってしまうわたしとしては、ニッポン語の特徴というのが関わっているのかもしれないなあ・・・、と思ったわけです。
「あいまいな日本のわたし」なんて言われますが、「あっち」と「こっち」のグループ分けは、あいまいどころか、はっきりしまくっていますからね。
だからなんらかの批判や論評に、自分が攻撃を受けたかのように怒る人が多いのかもしれないなあ、と。
またまた話は変わって、マイミクさんが、mixiのサパティスタのコミュにアップされた記事に、
>自治区は発展をとげているようですが、周囲の軍の動きやら、マスコミにて注目されることはすくなくなりましたが、やはり緊張はたかいままなのだそうです。
>こんなときこそ、よりいっそうの関心が必要なのかもしれません。
と記されていて、ほんとうにそうだろうな、と思いました。
そして、コロンビアのFARCのことを思い出しました。
まるでスーパースターのように大騒ぎされたベタンクールですが、彼女を人質に取ったのは[切り札]にするためであったわけで、けっしてひどい扱いはしていないはずなのに、このような騒ぎになったばかりに、結局事態はFARCの不利になってしまった、と、長女の大学に勉強に来ているコロンビア人学生が嘆いていたそうです。
ベタンクールの解放には、フランス人はほとんど陶酔していた感じですが、ベルギー人はけっこうひややかで、ルルドの泉に「解放の奇跡、どうもありがとうございました」と、マイク握り締め、騒ぐファンに囲まれながらお礼をする彼女の姿に、「バカかとムカついた」という人もいっぱいでした。
というか、わたしもあまりの滑稽さに、「アホか」 と思ったひとり。
どんなふうにアホくさかったか、見てもらうとわかりやすいかなあ、と、もしかしてYOUTUBEにアップされていないか探したけれど、見つけられませんでした。
残念。
id:kuriyamakoujiさんご紹介のこの記事、おもしろかったです。