旅の道中 その1 往路


父のお葬式、無事に終了したようです。

遠くにいると、参加できない寂しさもあるけれど、同時に手伝いも何もできないという心苦しさもありますねえ・・・。

うちのオヤジは、陸軍少年飛行学校を卒業した飛行気乗りで、戦争中は隼を操縦していたのだそうです。
終戦直前に飛び立つはずが、彼の飛行機のエンジン・トラブルで出かけられず、飛び立つ日程が終戦の1週間後に変更され、それで生き残ったんです。
それからシベリアに捕虜として4年(だったと思う)暮らし、ニッポンへ船で戻ったときは、もうニッポンは戦後の復興のまっただなか、彼がもっていた預金通帳の額なんて、時代の変化でほとんど価値のないものになっていた、と、そういう話をしてくれた記憶があります。

隼に乗っていた頃は、中国に暮らしていたわけですが、はたして現地の人々にどのような態度で臨んでいたかと想像するのは、こわいことですよ、私には・・・。

シベリアでは、言葉を覚えるのが速く、若くて元気でニッポン人のくせに寒さによく耐えられる、というんで、ロシア人にかわいがられたそうな。
それで捕虜達の班長のようなものに選ばれたものの、仲間のために食べ物をよけいにくすねているところが見つかり、拷問されたそうな。
皮を着せられて水をかけられるという拷問だったそうです。

ニッポンでは、ベッドに寝ている父を見ながら、そういう父に聞かされた話なども、いろいろ思い出したことでした。

父の追悼ということで、ずっと以前にmixiでアップした、父に関わる私の子供時代の思い出を記したものを貼り付けてしまおう。




「退化ネコは夢をみたか」

うちのクマが「ヒロ・・・」と私を呼びながら、ボーゼンとしているので、どうしたかと思って見てみると、おでこから少し血をながしているではありませんか。

ピーンときましたね。

我が家の退化ネコにやられたのです。
(悪いけれど、私はこういうとき、心配するより笑う人間です)

クマが説明するには、ネコちゃん、気持ちよさそうに寝ていたので、ああ、かわいいと、ふくふくのおなかにおでこをすりすりしようと近づいたらば、ものすごいすばやさで体勢を変えたネコちゃん、クマのおでこを引掻いたのち、両こめかみを爪を出した両手(?)でしばらく抱え込んだそうな。

「ビックリしたし、痛かったし、怖かった」そうで、詳しく様子を聞かされたら、そのシーンを思い浮かべ、よけいおかしくて大笑いしてしまいましたわ。

「消毒して」というので、(じぶんでやれよな、そのくらい)と、心の中でささやきながらも、マーキュロでちょんちょんと消毒。

それにしても野性に目覚めたかのような攻撃、我が家のネコちゃんとは思えません。

夢でもみたかな?などと考えているうちに、小さい頃の記憶が蘇ったのです。

母方の祖父母の土地である、諫早の栄町商店街に暮していて、大水害で家も何もかも流されたので、私が高校1年生のときに開発された、西諫早ニュータウンというところに引っ越すまで、同じ土地の祖父母の家の裏に、住宅金融公庫の融資を受けて、小さな家を建て、そこで暮しました。
(ちなみに、この機会に祖父母も家を建て直しましたが、水害のとき2階まで水がきたので、その経験で懲りた祖父、ものすごく天井の高い2階建ての家にしました。)

私たち両親と3人きょうだいの5人が暮した小さな家は、本当に小さくて、6畳間と3畳間がひとつずつ、トイレ、台所、小さなお縁だけ。
お風呂は近くに銭湯がふたつありましたから、そこに行ってました。

3畳間に兄と姉、6畳間に両親と私が寝ていましたが、ある日、小学校の低学年の頃だったと思うけれど、寝相の悪い私が、脚をどんと父親の顔か首のあたりにのっけたらしいのです。

父はといえば、夢をみていたとのこと。
けんかをしている夢。
夢の中で、けんかの相手が首に腕をまわし絞めてきたので、その腕を思いっきりかみついたそうです。

はい、その「夢の中の敵の腕」は、私のすねだったのでした。

ぎゃーっという私の泣き声で、家族全員目覚めましたよ。
明け方の5時くらいだったと思います。
母が、噛み付かれた私のすねに、軟膏を塗ってくれました。

父は身体がたいへん健康な人で、歯並びがよくて虫歯もゼロ。

かみつかれた痕は、1年以上消えませんでした。


うちのネコちゃんも、ジャングルでクマ(って、ジャングルにいない?)に襲われる夢をみていたのかもしれません。

退化しているとばかり思っていたけれど、私の父親並みの野性性を残していたのね。
なんてかわいいんでしょ。うふ。


というわけで、今朝のタイトル、今回の旅の往路・復路で見たこと、感じたこと、またまた備忘のために記しておきます。


急に決めたニッポン行き、というんで、ネット上で少しでも安いチケットを探しました。
どんなに安くともひとり分1300ユーロくらいする中、ようやく探し当てたのが韓国のアシ○ナ航空のもの、パリ発フランクフルト、ソウル経由で、パリ・フランクフルト間はルフ○ハンザ航空で、パリまで往復も含めて、ひとりあたりの交通費約1000ユーロでありました。

このアシ○ナ航空、初めて利用したんですが、たいへんよくて、我々大満足。
スタッフは親切、食事も飲み物もよく、機内も清潔で設備もよかったです。
(モンゴルへ出かけたクマが、一番安かったアエ○フロートを利用して、あまりのサーヴィスの悪さに怒りまくっていたのと対照的でありました・笑)

行きの飛行機に間に合うためには、モンスの街からTGVに乗れば一番ラクチンだったのだけど、国境を越えてすぐのフランスはモーブージュからフランスの普通の国鉄を利用した方が安かろうと、車のない私たちのため、モーブージュに住むクマの天文仲間が、早朝迎えに来てくれました。
ときどきここで話題に出す、ポーランドの王、ジャン・ソビエツキの直径の子孫であるソビエツキさんです。

うちからモーブージュの国鉄駅まで約20分、ソビエツキさんとお話をしておもしろかったのは、刑務所へ囚人を訪問することを、もう10年ほど続けている、という話。

へええっと驚き、ミシェル・フーコーみたいですね、と言うと、
「彼は哲学者として行動していたのだけど、自分はそんなんじゃない」と。
だいたい1週間に2回、1回につきひとりずつ、ふたりの囚人と話をするんだそうです。
その人がなぜ「自分」でないのか、その人がしたことをなぜ「自分」はしないのか、それを考えないではいられないと話されました。
(これこそ哲学のテーマじゃん、と思いますが・・・)
どんな人も、完全なる孤独にさらされないでいい権利がある、というのが、訪問の基礎にある考えだそうです。

モーブージュ近郊では、この8月3日に竜巻が起こり、たいへんな被害が出たのです。
国鉄駅までの道中では、そういう被害の後も目にしました。

ソビエツキさんちは被害のあった竜巻の道筋から、1キロメートルの距離。
竜巻が起こったニュースを知った時、うちも近いので、「ここ通っても不思議はなかったのね」とゾッとしましたが、それよりもっと近い。

「どうして被害にあったのが自分じゃなかったのか」

これはカインとアベルのお話を思い出します。

神はなぜアベルの捧げたものは受け取り、カインの捧げものは受け取らなかったか、という問いですね。
その理由はない、という神学者の話です。