故郷の言葉

昨夜ドラマ「親戚たち」を最終回まで観ました。

全国向けのドラマで、あれだけホンモノの諌早弁を連発したらば、諫早人以外にはわからないことが多かったんじゃないか、と思いました。

主人公の楠木雲太郎は、「フーケモン」とか「ツークレ」とかって呼ばれるんですが、こういう言葉の意味、わかります?


フーケモンというのは、おバカな目立ちたがり屋という感じかなあ。
私は、若い頃奇をてらうところがかなりあって、
(今思い返すと、恥ずかしいですがね)
かわった髪型や服装をして里帰りすると、父親から、
「そんなフーケモンみたいなかっこしているのは、諫早でお前だけだ」
と怒鳴られていました。
ま、そういう使い方をする言葉なわけです。(笑)


私が子供の頃、諫早のような田舎では、有名歌手のコンサートなど、町で一番大きなスーパーマーケットなんかが主催していて、その店で買い物をすると、入場券がもらえるわけです。
ファンが入場券を購入するようなかたちじゃないので、入場したい時は買い物する以外方法なし、一方、ファンじゃなくても、入場券をもらうと観に行くわけ。
大体1年に1回くらい、そういうイヴェントがあったような記憶ですが、村田ひでおとか北島三郎とかの舞台を、親に連れられて行って観ました。
中学生くらいになると、親とではなく、友だちと一緒に、ピーターとかジュリーとかも、そういう入場券でもって観に行ったのでした。

で、ジュリーのコンサートの時、一番前に座っていたおじさんが、ジュリーに向かって、「フーケモン」と怒鳴ったんです。

「フーケモン」という言葉を聞くと、いつもそれを思い出します。


ちなみに「ツークレ」というのは、質の悪い不良品という感じかな。

こうやって標準語に訳しても、抜け落ちていく微妙なニュアンスがあるんですけどね。


それにしても、故郷の言葉、可笑しくて、切ない。


多和田葉子さんの「エクソフォニー」に、

>どうでもいいことをどうでもいい人としゃべっていると、なまりが消える。しかし、自分の頭で考えて真剣に何か言おうとすると、なまりが出る。自分の書いた詩や散文の朗読ともなると、なまりそのものがリズムの重要な構成要素にさえなる。

と記されていました。なるほど。

エクソフォニーというのは、母語の外に出た状態一般を指す言葉だそうで、「エクソフォンな作家」というと、これまでの「移民文学」とか「クレオール」文学とかより、もっとうんと意味が広くなるわけです。

多和田さんはその状況を楽しんでいるんだけど、一番極端な場合など、言葉が「意味」から完全に自由になった状態すら求めている、「意味がわかったとたん、人は言葉でコミュニケートし始めるから。言葉にはもっと不思議な力があるのではないか。」と。


しばらく前に、母国語の抑圧から自由になる、といった話をmixiの日記のコメント欄でしました。

たとえば、ニッポン語以外の言語で話しているとき、自分の性格が微妙に変化している感じがするのは、母国語の抑圧から解放されているからじゃないか、とか。

多和田さんも、今年の「フランス語で書くときが、母語であるペルシャ語で書くより自由だ」と言っていたゴンクール賞受賞者と、まったく同じことをこの本に記されています。

>・・・外国語を学ぶということは、新しい自分を作ること、未知の自分を発見することでもある。わたしたちは日本語を通して世の中の仕組みを学び、人との付き合い方を学び、大人になってきたわけだから、こういうことを考えてはいけないとか口にしてはいけないというタブーが頭の中に日本語といっしょにプログラミングされている。つまり、日本語でものを書いている限り、タブーに触れないようにする機能が自動的に働いてしまう。それが、他の言語を使っていると、タブー排斥機能が働かなくなって、普段は考えてもみなかったはずのことを大胆に表現してしまったり、忘れていた幼年時代の記憶が急に蘇ってきたりもする。



言葉の力、もっともっと考える価値のあるテーマで、すごく興味深いですねえ。