忙しかったけど、いい読書ができた


ここんとこ、新聞を読んだり、ニュースを聞いたりする暇もなかったけど、よい読書ができました。

バスや電車は、ニッポンに比べると全然便利じゃなく、本数も少ないし、時間通りに動くというわけでもなく・・・、そういうことは初めからわかっているので、本をいつも持っていて、急に現れる何もできない30分や1時間というスペースを、読書で埋めていくのです。

昨日は、須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」を、ゆっくりと味わいながら読み終えました。

いろいろ思うこともあったけれど、とにかく感動しつつ読了したことをここにメモ。



今、id:eireneさんご紹介の記事

村上春樹氏イェディオット紙インタビュー

http://hyoryudr.blog111.fc2.com/blog-entry-208.html

コメント欄での質問と、それに対するレスも含めて興味深く読みました。


エルサレム賞云々とはまったく次元の異なることで、ひとつ興味をひかれたのが、

>村上氏は欧米の読者と日本人の読者の間にある、氏の作品の読み方に対する明確な違いを理解している。「僕が書く作品にはシュールレアリズム的な特徴があります」「日本やアジアでは、なぜ僕が書くものはこれほどにも奇妙なのか、なぜ猫が話し出し、なぜ天から魚が降るのかといった疑問を読者が持たず、それはそのような話として受け入れられます。それが、アメリカやヨーロッパでは、「ポストモダン」または「非現実的現実主義」と解釈されるのです。」と述べる

というところ。

「疑問を読者が持たず、それはそのような話として受け入れられます」というのは、これを「読者」というところを「市民」とかいった言葉と入れ替えて、政治や社会の話にしても、そのままいけたりしません?

なんでこんなことを言うかというと、ちょうど昨日、ニッポンから40人の観光客を率いてきた添乗員の方といろいろ話をしていて、レストランでのお客さん各自のドリンクの支払いのことに話が及んだのですが、彼女が言うには、たとえば、3ユーロ95セントのビールを誰かが注文したとする、そして支払い時点でボーイさんが5セント硬貨を持っていなくておつりがない、といった事態になると怒るのに、同じお客さんに、3ユーロ50セントの飲み物を「チップ込みで4ユーロです」とあらかじめ言うことには全く問題ないと。
つまり「こうなっている」というルールがあるか、ないか、に左右され、何故か、とか、差し引きしたらこっちの方が安い・高いという計算をする、とか、そういう発想をしない、というんです。

で、話を戻して「疑問を読者が持たず、それはそのような話として受け入れられます」ということなんだけど、それってもしかしてシュールなものを受け入れる素地という以外に、この「レストランでの飲み物代」にまつわるエピソードに通じた部分があるんじゃないかしら、と思ったわけです。

まだなんか思うととこがあるんだけど、言葉にできるのを待っていたら、今ここに書いたことも忘れちゃうんで、とにかく、アップ。