先日日記に記した記事「近代世界の敗北と新しいエネルギー」の「無責任な受益者」という言葉が心に突き刺さり、まさしく無責任な受益者である「私」についてまだ考え中です。
思い起こせば、仕事をポーンと辞めてメキシコに行ったとき、私は「無責任な受益者」であることを止めたかったんだと思うのだけど、でも、そのときはもっと感覚的・直感的で、きちんと思索として深めたわけでもなく、したがって当然ながらそれを言葉にしていたわけでもなかったのですよね。
文明を完全に否定はできない、要はバランスだよな、と、即挫折したわけだけど、もしきちんと考え抜いて、それを言葉にし、自分自身に話しかけていたら、今こうやって、一人暮らし始めてはしゃいでいる自分はいなかったかもしれない、というか、もう少しましな人間になれていたかもしれない。
言葉にするって、大切なことね・・・。