もうちょっとしたら、北海道に行きます


6月ももうそろそろ終わり、2014年も半分終わってしまいますね。
前の日記から、なんと、3か月も経ってしまったのね。
4・5・6月の今まで、仕事がいっぱいで、ブログの更新の余裕がなかったのであります。

ところで、「世界で一番美しい町」の集会が、この5月、ベルギーのモゼ村で開催され、その際のお手伝いを少ししたことで、北海道の美瑛のことを知りました。
美しい丘の町として有名なんですね。
私は全然知らなかったのですが、これが縁で興味がわき、行ってみることに。
来年の世界集会の担当は美瑛だそうです。
フランスで「フランスで一番美しい村」という集まりが作られたのが発端で、その後、イタリア、ベルギーのワロニア、ドイツ、カナダ、スペイン、日本などで、同様の集まりがスタートしたのだそうです。
フクシマの事故で放射能に侵された飯館村も、日本で一番美しい村のひとつです。

そういうわけで、7月4日にベルギーを発ち、わずか1週間ですが、初めての北海道、わくわくしています。
何をする、というような計画が一切ないので(というか、最近そういうことを考えられなくなったんですよね、脳みその老化のせいかしら…)、この記事を読んだ方で、旭川あたりでこれがお勧め、ということがあれば、教えていただくとありがたいかも・・・。


さて、いつも興味深く読ませていただいているSPYBOYさんの記事
http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20140627/1403876027
を読んで思い出したことなど。

>取り戻したり、頑張るようなニッポンなんて、現実にはどこにもないんだよ

というところに共感。

どういう風に共感したか、言葉にするのはとても難しいんだけど、自分の頭の中で呼び起こされたのが、「意味を求める」という態度のこと。
ずっと小さい頃から、とても貧しいところで生き抜くために食するという行為はとても美しいのに、豊かな国であれこれこだわって食する行為は、ときには醜くすら見えるのは何故なんだろう、と思っていて、かなり年取ってからの私なりの結論が、生き抜くために食べる行為はそこに「意味」を探そうとしていないけど、後者はそこに「意味」を付け加えようとするからなんじゃないか、というもの。意味をつける行為の核みたいなものの性質によって、醜く見えるのだと思ったわけです。

私は諫早の大水害の年に生まれたのですね。
この水害では700人くらいの人が亡くなったんですが、一方、私はこの水害で命拾いしたのです。
予定外の妊娠で、体調のせいで産みきる自信のなかった母は、まだ小さかった姉と兄を母親のいない子にはできないと中絶を決心、その処置の日も決まっていた時の水害でした。
結局中絶どころではなくなり、予定日より2か月も早く、母がおそれていた通り、子宮が破裂するという大変な事態になりました。
病院では、赤ちゃんはあきらめてください、お母さんに全力を尽くします、というお医者さんの言葉で、帝王切開で仮死状態のまま取り出された私は、そこらへんに放っておかれていたのに、自力で息を吹き返し泣き出したのだという話です。
母も無事でした。
ふたりとも生命力が強かったんでしょうね。

小さい頃から、家族から繰り返し聞かされてきたんで、私は、「すごく運が強い、多くの人が亡くなった水害のおかげで生まれた」と信じ込んで大きくなりました。
さらには、(誕生日もクリスマスだし)「私が生まれてきたことには(イエス様みたいに)何らかの意味がある」と思い込んだりもしていました。

でもこれも、かなり大きくなってから、間違いだったと気づきました。
私が私として生まれたことに、意味はないと思うようになったのです。
私が私であることは偶々そうなったのであって、どこかの違う誰かとして生まれてきたかもしれないと、私は意味を持って生まれてきたのではなく、そういうものは、生きていく中で付加されていくものにすぎないのだなあ、などと思うのですね。
そしたら、逆に、生きていくことが本当に楽しくなってきた感じがあります。

それって、「取り戻したり、頑張るようなニッポンなんて、現実にはどこにもないんだよ」というのに、なんか似てるかも…。

日本からいらっしゃった方たちによく、「ベルギーで日本はどう言われていますか、どう思われていますか」と聞かれることがあります。
私は意地悪だから、「何も言われていないし、何も思われていません」と答えます。
マンガのファンで日本が好き、とか、武道をやってて日本が好き、という人はけっこういます。
日本のテクノロジーを褒める人もいます。
でも、同じような感じで、中国文化が好きな人もいれば、アラブ諸国の文化に親近感を持っている人もいれば、アフリカの諸国やラテン・アメリカの諸国の文化のファンや、アメリカの文化のファンもいるわけです。
ここで毎日日本の話がされることなどなく、最近のことでいうなら、ブリュッセルで開催されたG7のニュースでは、ウクライナ問題のみが報道され、アベさんが話した内容など、一切話題に上りませんでした。


ベルギーのような国に暮らしていると、「国家」というものに自分のアイデンティティーを求めることに、とても大きな違和感を抱くようになるのです。
そして、そういう感覚を持つようになった自分が、けっこう気に入ってます。

国家なんて概念、近代になって生まれたものにすぎません。
しかも、良くも悪くもグローバリゼーションの時代、「国家」なんてものから、いいかげん自由になってもいいのではないかしら。

なんてことを思ったわけです。