パリのCharlie Hebdo襲撃事件で考えたこと


今月7日に起きた、パリの襲撃事件はタイヘンな衝撃でした。
いろんな人々が共存している空間に暮らしている身としては、ものすごく身近だし、脳みそ内で一挙にいろんなものがああでもないこうでもないとぐちょぐちょ状態に…。

問題はものすごく複雑で、単に「イスラムとの対立」とか「表現の自由」とかではくくれないし・・・。

事件の全体像になるべく近づき、そしてそこに絡み合う要素を一つずつ、「何故?」と検証しないといけないと思う。

まず、これだけは絶対言えるのは、「殺しちゃいけない」ということでしょう。
こうやって一方的に「裁く」ことは許されないと思う。

そして、殺された風刺漫画家たちが、何故そこまでして描きつづけたのか、そこのところもはっきりさせないといけないと思う。
昨日読んだこの記事で、そこんところだけは少しすっきりしたので、こうやってブログを書く気持にもなれたのです。

これ。
http://www.sudouest.fr/2015/01/10/pour-le-dessinateur-luz-ces-manifestations-sont-a-contre-sens-de-charlie-1792749-6092.php

仲間の漫画家で、殺害を逃れたLuzの話が紹介されています。
多くの人々の連帯に感謝しながらも、今回の事件で、Charlieがシンボル化されるとしたら、それは自分たちのめざしてきたことと相対するものだと、そう言ってます。

彼らが風刺していたのは、何もイスラムのことだけでなく、バチカンや国内の政治家やいろいろだったんだけど、彼らが闘っていた相手は、すべての「シンボル化されたもの」であって、いろいろ物議を醸しても止めようとしなかったことや、編集長であったシャルブの「跪いて生きるより立ったまま死ぬ方を選ぶ」という言葉も理解可能になってきます。
それが彼らの思想で、絶対譲れない地点であったわけで、そのためにペンでもって闘っていた。

だからこその「表現の自由」。

ただ、この表現の自由というコンセプト、自由と言っても限界が、という議論があります。
何をもって限界とするか。
今までの歴史を振り返ると、タブーと言われるものがあり、例えばベルギーでも、ほんの20年か30年前までは、王室に関する風刺画はタブー視されバッシングを受けていたのだけど、そこを無視して描きつづけることで、そういうタブー視を打破できるに至ったわけで…。

今回の事件で、そこらあたりの「限界を打破する」という発想や、その限界そのもののとらえ方に、文化の差が感じられます。
私としては、打破するために闘っていた人たちの方が理解可能だったりするのだけど。


次に、多文化共存の在り方。
これは難しすぎて、簡単に答えは出ないと思う。
自分でも考え続けて、そして、少しでも自分が「よし」と思う方へ行くしかない、と思っています。
本当に落ち着くには、100年くらいは少なくともかかるでしょうね。
でも、後戻りはできないし、現実にそういう世界に生きているわけだから。


そして実行犯たちのこと。

これはこれで、経済問題や教育の問題、若者たちの鬱屈感、その他もろもろ、ものすごく複雑だと思います。
彼らの行動は許されないとしても、どうしても気の毒に思う部分があったりするのです。


なんというか、すごく悲しい、悲しすぎる・・・。


パリ在住の竹下節子さんのブログは、こちらで暮らす上で、いつも参考にさせてもらっているのだけど、今回の件についても、4日間に渡って記事をアップされていたので、興味のある方のためにリンクを貼りつけておきます。

http://spinou.exblog.jp/