大戦時の強制収容所跡2か所

昨日、ヒロシマの日、8月6日、私は友人たちと、大戦中ナチの統治下にあったベルギーに存在した強制収容所跡2か所、現在はミュージアムとなっているブレーンドンク要塞とカゼルヌ・ドッサンを訪ねました。
前者は主にベルギー人レジスタントを収容していたところで、後者は主にユダヤ人の人たちを、もっと東にある収容所へ送る際の中継点となったところです。

ブレーンドンク・メモリアル・ミュージアム
http://www.breendonk.be/EN/index.asp?ID=Home

カゼルヌ・ドッサン・メモリアム・ミュージアム
https://www.kazernedossin.eu/EN/


今日は昨日のミュージアムに関するメモを、と思うのですが、その前にこれもメモとして、一昨日観賞したドキュメンタリーについても記しておきます。
ヒロシマナガサキの記念日の8月ということで、私の大好きな仏独共同のTV放送arteでも、原爆関係のドキュメンタリーをいろいろと放送しています。
たとえば、これ。
日本ではこのリンクでは見られないと思いますが、一応貼りつけておきます。
Hiroshima, la véritable histoire
http://www.arte.tv/guide/fr/054197-000/hiroshima-la-veritable-histoire?autoplay=1

こちらにいると、自分の母国である日本に関するドキュメンタリーでもって、日本では一切知る機会のなかったことなど(特に近代史)を知ることができ、とても興味深いのですが、このドキュメンタリーでも同様でした。

歴史学者の人たちが、もう日本が瀕死の状態であったことから、原爆を落とさずとも、もう時間の問題であったと述べていたこと、ポツダム宣言に、もし天皇制を一定の形で残すことをポツダム宣言に加えていたなら、日本はそれをのんだかもしれない、と述べていたことが印象的でした。
さらに、トルーマンは、原爆の効果を最大限に得るためには、日本の木造家屋が広がる最も日本的な都市を標的にするべきだ、と考えていたこと、従ってリストのナンバー1が京都、2が広島、3が新潟であったこと。
アメリカでは京都はスピリチュアルな街であり、日本で最もインテレクチュアルな人々が住むところ、と考えていたためにリストからはずされたこと。
京都が爆撃の対象からはずされたというのは有名な話なので知っていましたが、文化遺産を守るため、と思っていたので、実は「もっともインテリが多いところ」とみなされていたから、というのは、けっこうショックでした。
さらに、今までの自分の頭の中では「原爆が落とされた広島」ということしかなかったけど、昔は非常に日本的な美しい都市だった、ということは、初めて聞かされることで、これも私としては大きなショック。
思い起こしてみれば、原爆を落とされる前の広島のこと、今まで考えたことなかったです。
自分の想像力のなさを思い知らされてしまった感じ・・・。



さて、それではブレーンドンクについて。
ここは第1次大戦のとき、アントワープを守るために11作られた要塞の一つだったところです。
最初はコンクリートで建設されたのち、敵に見えないように土に埋められた状態でした。
第2次大戦では、早々にナチの統治下に入れられたベルギー、この要塞はドイツ軍のものとして、ナチのSSとベルギーのSSによって管理され、レジスタント活動のために捕らえられたベルギー人たちを中心にした収容所として使われました。
彼らは、建物を覆っている土を取り除く作業などをさせられました。
この収容所は、ドイツ軍がそこから逃れる際、証拠隠滅等を行う時間もなかったということで、ほとんどそのまま保存されているということです。
拷問室、絞首刑・銃殺刑に処せられた場所もそのまま残してあります。
収容されていた人々のベッドルームでは、そこにいた人たちにまつわる話なども知ることができます。


収容所入口。「ストップ ここを通るものは銃殺される」と記されています。


ここでは3500人が収容され苦しんだこと、164人が銃殺刑で、21人が絞首刑で、100人ほどが拷問や疲労で亡くなったことが記されています。


建物の正門。ここに入るには、堀を超えるための跳ね橋を渡るのですが、この正門の跳ね橋はSSのみが渡るところで、収容されていた人たちが入る際は、この橋から少し離れたところにあるもっと貧弱な橋です。


私は「番号」ではない、と記されています。
ミュージアムの最後あたりにあるこの部屋では、収容された人たちの記録が検索できるようになっており、ひとりひとりの物語を知ることができます。


拷問室や独房、処刑場などは、写真を撮る気持ちにはなれませんでした・・・。
収容された人たちの中には、最後まで崇高な気持ちを持ち続けた人もいれば、仲間を売るスパイのようなことをして利益を得た人もいれば、まるで自分自身がSSの一人であるかのように、暴力的に仲間を支配しようとした人もいました。
なんだかんだ言ったも平和な日々を送っている私、この環境で理想的なことを言えても、残酷な部分、臆病な部分もあるわけで、このような極限状態に置かれたとしたら、どのようなふるまいをするか…、何が怖いと言って、それが一番恐ろしい。
そういうことを思っても、こういう事態に二度と陥らないようにしなければ、と思わないではいられません。

見学には3時間以上かかりました。


この日はもうひとつ、カゼルヌ・ドッサンも訪ねる予定で、メヘレンの旧市街からそれほど遠くないところにある、そのミュージアムへ向かいました。
ミュージアムにたどり着いたのがもう午後4時。
5時には閉館となるので、果たしてわずかな時間で見学できるかしら、と、受付で訊ねると、2時間はかかるから、また来られるのであれば、出直した方がいいよ、とのこと。
ミュージアムの向かいにあるメモリアル・センターだけなら、入場も無料だし、時間的にも可能だから、今日のところはそこだけ見たらいいですよ、というんで、そこだけ見て、また出直すことにしました。

メモリアルセンターです。


ユダヤ人やジプシーの人たちは、いったんここに収容されたのち、東にある収容所に列車で送られたわけですが、1番目の列車から、最後の28番目の列車までの番号が記されたソファーに座ると、その上にあるスピーカーから、その列車に乗せられた人たちの名前が聞こえてきます。


ここでも、送られた人たちはただの「番号」ではないと、そのアイデンティティが、列車ごとに現れます。


子どもたちの多くは、写真もありません。


ここから、24161人が、ドイツの収容所へと送られた、と記されています。


ずっと前、このブログにも、トニー・ガトリフ監督の映画「リベルテ」について記したことがありましたが、

  • 映画について

http://d.hatena.ne.jp/shohoji/20100619/1276921419

  • 監督インタビューの記事を訳したもの。

http://d.hatena.ne.jp/shohoji/20100429/1272573000
http://d.hatena.ne.jp/shohoji/20100501/1272696466

あのジプシーたちはここに収容されたのちに、アウシュビッツに送られたのですね・・・。


またこのミュージアムには足を運びます。
そして報告します。


明日は、前暮らしていたモンスの街のモンス大学で、毎年行われる反核セレモニーに参加してきます。
モンスと限らず、ルーヴァンでも反核セレモニーが行われるようですが、わたしにとってより身近なモンスへ行ってきます。
またその様子など、この場所を使って報告させてもらいます。