ここしばらく仏語でいうところのangoisse(日本語で言うと〈不安〉かな)ってのを感じてます。
ノーテンキな私でも、たまにこういう時がある。
理由はだいたい決まっていて、ありとあらゆる「しないといけないこと」がいっぺんに降ってきてる状態にあるとき。
こういう時は、その「しないといけないこと」の数々を分析してバラバラにしてあげるのが解決法、で、本当にしないといけないことなら、ひとつひとつ順番にやっていけば気持ちスッキリ。
中には勝手に「しないといけない」と思いこんでいるだけのモノが混ざってるんで、それは取り除いてあげる、「べつに何もしなくていいんだよ、気にすんな」と自分に言い聞かせて。
で、最も厄介なのが、しないといけないのはおそらく間違いないのに全然具体的じゃないもの。
どうやったらいいの?ってことになるわけですよねえ。
で、今感じているangoisseって、これなんです。
頭がますます悪くなっていってるキョーフです。
なぜかというと、脳みそから「言葉」がどんどん消え始めてる気がするから。
メキシコで暮らし始めた頃、同じようなキョーフを味わいました。
スペイン語をものにしようと、日本語を排除したんです。
日本語を話さない・聞かない(これはイヤでもそうなる、まわりに日本語を話す人がいなかったから)・読まない・書かないと決めました。
そしたら何が起こったかというと、モノゴトをちゃんと考えられなくなった。
考えるときは「言葉」を使うんだ、という当たり前のことを思い知らされたのです。
あの時の、頭がだんだん悪くなっていく感じ、キョーフ以外の何ものでもありませんでした。
たぶん本をあまり読まなくなってることも原因です。
読みたいと思ってゲットしたくせに、読まないまま積読状態の本の数々…。
死ぬまでに読み終えることが、はたして可能なのだろうか。泣
モト夫は意地悪な性格で、仏語を教えてもらおうとするたびにイヤミや意地悪ばかりで不快でしたが、中には正しいアドバイスもあり、そのひとつが「たくさん読め」でした。
やはり読むことは、言葉を豊かにするために有効な一手段だと思います。
ま、この習慣化してしまっている怠惰を一気に治療するのも難しいだろうし、そんならまず脳みそに知的刺激を与えましょうと安易な第一歩、尊敬に値する人のドキュメンタリーを見ることにしました。(悲しいまでに安易…)
テオドール・モノ 20世紀の隕石
この方については、日本語Wikiにも記事があったので貼り付けておきます。
日本語記事はとても短くて、彼がアンガジェの人だったことが記されていませんが、活動家としても有名な人です。
20世紀をまるごと、淀むことなく生きた人、このドキュメンタリーは、彼がサハラ砂漠で見つけた隕石を、子どもたちに見せながら説明するところから始まります。
この隕石、片面はツルツル、その反対側はザラザラでしょ、10万年前に落ちてきて以来一度も裏返ったことがないことがそれでわかるのよ、と。
この方の業績、そして家族や友人・知人たちの思い出などが語られるのですが、息子さんが語っているのが興味深かった。
愛と敬意に充ちた家庭であるにもかかわらず、家庭での会話というものはほとんどなかったのだそうです。
というのも、「自分たちにとってエッセンシャルなことは他にあったから」と。
凡人の私なんて、それを聞いて「おおおお、すごい」と思い、深く感動してしまった。
徹底したパシフィストで、ミッテラン大統領の招待も、血塗りの国歌であるラ・マルセイエーズを理由に断ったんだそうです。
何にも属さず、ものすごいスケールの時空を生きてる、かっこよすぎて涙が出ます。
自然の中で見たありとあらゆるものに興味を引かれ、何故?と問い追及し続けた人。
そして、生きとし生けるもの全てを守ろうとした人。
花を一つ摘むことすら地球に影響する、と。
「政治家にとっては500年なんて永遠みたいなものだろうが、私たちにとっては500年なんて一夜にすぎない」と言ってます。
彼の言う「私たち」は、生きとし生きるもの全て、なんでしょうね。
追記・今読み返して思ったけど、この「私たち」は地球のことか、あるいは、宇宙全体かも。
この動画の最後のところで、彼が「GDPについて語るより、幸福度について語るべき」と言ってるんですが、「幸福」と訳していいのか、なんて考えてしまいます。
実は、今「言葉」で私の脳みそが苦しんでいるのは、普通に自分が使っている「訳語」についての疑いをぬぐえないからです。
当たり前のように使っている訳語の数々、日本語になっている「民主主義」「国家」「公共」「市民」「連帯」「個人」「人権」などなど、全部ほんとにわかって使っているのか、使われているのか、全部疑い始めているので、ちゃんといろんなことが考えられなくなっているわけです。
日本語を疑うのなら、仏語を磨かないといけないのですが…。
「幸」という漢字は奴隷の手枷の形からきていると、大学の教養課程で文学の先生から教えてもらいました。
枷がはずされるのは売りとばされるとき、枷をされている状態は現状維持を表すのよ、それが幸せのもともとの意味だ、と。
仏語の「幸」「不幸」はbonheur と malheur 、bon-は良いことでmal-は悪いことを表しますからheurを仏語歴史辞典で調べてみると、「条件」とか「運命」の意味だと書いてありました。
(と書きながら、訳は「条件」「運命」でいいのか、と疑っている)
さて、明日21日はベルギーの建国記念日です。
今日は恒例の王様のディスクールが行われました。
内容のほとんどがコロナ禍に関するもの、この危機によって経済・社会のあり方が問われている、我々の生き方が問われている、これまでの不公正がよりはっきり見え始めた、これまで以上に耳を澄ませるべき、そして、より公正で持続可能な社会にしていこう、加えて、そのためにも、早く安定した政府を作ってくれることを願う、という内容でした。
明日は普通だったら王宮前広場でセレモニーですが、今年はコロナのせいでそれはものすごく簡単に行われます。
かわりに、ベルギーの5つの街から5つのコンサートだそうです。
私の好きなOzark Henryも5つのコンサートの一つを担うとのことで、楽しみです。
最後に、自分自身のためにいくつかビデオを貼っておきます。
arteで放送された1972年にジョンとヨーコが実験的に作ったという珍しいフィルム。
アングロ-サクソンによるフレンチバッシングの話。
ジョン・F・ケリーが、仏語ができる上に見た目も彼らが描くフランス人のイメージっぽい、ってんで嫌われた話なんて、へええ、と思っちゃった。
フランスでディスクールの際、最初の挨拶を仏語でやった後、ここからは英語でやります、そうしないともう帰国できなくなっちゃうから、と。笑っちゃいました。
FB上で見つけたビデオもいくつか。
FBにアップされるこの手の短いビデオは、雑学のみのミーハーな私には非常におもしろい。(笑)