ブリュッセル考古学デー

一昨日と昨日、予定通りブリュッセル考古学デーのガイディング・ツアーに参加しました。

お天気は晴れたり・曇ったり、雷雨が突然…なんてこともありうるなあと、それが一番心配でしたが、雨が降るのは連日夜のみ、よかったあ。

降ってくれないと爽やかになりませんから、降るのはいいんです。

でも。歩くときはいやだ。

 

一昨日の夜は竜巻が発生しタイヘンな被害が出たところがありました。

怖いですねえ。

ニュースで被害を受けたボーランとロシュフォールの様子を見ました。

このボーランというところは、ベルギーで2か所ある聖母マリア出現地のひとつです。

www.rtbf.be

 

昨日の大きなニュースは、ひと月ほど前にここでも記した、コロナ禍対策の中でアドヴァイスをしていたウィルス学者を殺すと脅迫した過激極右思想の兵士、武装したまま逃走したんでずっと捜索されていたんだけど、遺体でみつかった、という話。

今朝のニュースによると、自殺であることも確認されたそうです。

SNS上でもリアルでも、この人を支持するひと(その多くは陰謀論を信じる)もけっこういるらしい。

こういうの、ワタシには理解不能だけど…。

昨夜のニュースでは、犯罪学の専門家がコメントを求められ、この人物のあり方がいわゆる組織されたテロリストたちとは全く異なり、逃走中に先祖の墓を飾ったり、恋人に自殺を匂わせるメッセージを送ったり、非常に自己中心的である、と。

そして、この人をヒーロー化する者たちが出てくる可能性についても言及。

なにより、この事件、あまりにもカンタンに軍の武器を盗み出すことができたのが問題だったので、そのあたりの改善が図られるでしょう。

www.rtbf.be

 

 

コロナ禍については、ICUの患者数が200を切る勢いで、今朝のニュースでは204,Rtは0.77です。

 

 

 

さて、考古学デー。

 

土曜日はRouge-Cloître に行ってきました。

1300年代に、聖アウグスチヌスの教えに従い隠遁生活を始めた二人の人物が起源です。

当時のブラバン公爵が、この土地を彼らに授けました。

その後、統治者たちの庇護を受けどんどん発展します。

でも16世紀の宗教戦争で破壊されたり、その後建て直したものの18世紀にはオーストリア大公ヨーゼフ2世の頃は保護されることもなくなるし、さらにフランス革命軍の時代になると切り売りされるし、で、どんどん様相が変わっていきます。

このままでは貴重な歴史的な場所が損なわれるということで、1900年頃国が買い取り、現在はブリュッセル首都圏の所有です。

教会は全く、この場所を守るために囲んでいた塀はほとんど、現存しません。

 

無料でダウンロードできるヴィジターズガイドブック ↓

http://v3.globalcube.net/clients/rougecloitrev2/content/medias/publications/guide_fr.pdf

 

見学現場にたどり着くためには、市民の散歩、ジョギング、憩いの場となっている公園を通ります。

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働かず遊んでばかりのミツバチちゃん 笑 ↑

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ガイドを務めてくれたのは、考古学者の女性二人と修復工事責任者の建築家。

考古学者のうちひとりは建築に使用されている梁など、木材の年輪を調べることで、その建物がいつ建てられたものか特定していく方法を、実例を示しながら説明してくれました。

 

たとえば、これ。

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1階部分、アーチが4つ認められますが、実は12のアーチを持つギャレリーになるはずだった。

梁を調べた結果と残された資料で、この建物の建築が本来の計画を実現することなく、1683年にストップしちゃったのがわかるのだそうです。

 

ちなみにフォトの右に写ってるその後付け足された部分は、今アートセンターになっていて、今アドリアン・ヴァンドゥプット展をやってました。

fr.wikipedia.org

 

 

maison de prieur (辞書を見て直訳すると、修道院長の家 になるけど、ここは修道士たちが生活した建物)の修復工事現場は、もうひとりの考古学者さんと建築家さんが案内してくれました。

もう20年前からずっと閉じられています。(閉じられる前レストランだった)

ものすごく長い時間がかかっているこの建物も、近い将来カフェ・レストランおよび催物会場としてオープンするらしい。

 

一番美しいのが、17世紀のこのギャレリー。

工事現場なので見学者もヘルメットをかぶることが義務。

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ここはゴチック部分。

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最後にこの壁画が修復されることになります。

保護するために紙が貼り付けてあるのでわかりにくいですが、広々としたスペースに続くかに見えるようなトロンプルイユとなってます。

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一見同じ窓が並んでいるかのように見えますが、ひとつひとつのサイズが微妙に異なるので、ひとつずつ修復されました。

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窓の下部分の装飾も同様、ひとつひとつ修復。

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この空間に設置するには、あまりにも醜くてガッカリなのがラジエーター ↓ 。

ホントは床暖房にしたかったのだけど、床も昔の工法で石灰を使うもので、その工法だと工事を担当する事業者が負担が大きすぎてやりたがらない、でこうなった。

でも、最近視察に来た担当大臣も「醜い…」と嘆いたらしくて、最終的には床暖房になると思うよ、と建築家さん曰く。

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見学終了して歩いていると、昔の農場あたりにメンヒールかと思われるこんな石が!

何なんだろうと思ったけど、もう解散した後で考古学者さんたちもいなくなり、質問できない…。

でも翌日この疑問は解けました。

後で記します。

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今回の見学では専門分野が異なるので全く触れられませんでしたが、ここで初期フランドル派第2世代の画家Hugo van der Goesが晩年を過ごし亡くなっています。

この画家さん、今まで作品をを見ることはあってもあまり関心なく、ゲントの画家だ、くらいの認識しかなかったのですが、今回この考古学デーの話をした友人に、この場所と関りが深いことを教えてもらったのです。

それをきっかけにちょいと調べることで、彼が私の中で生きた存在となりました。

興味がわいたので、今後詳しく見ていこう、と思っています。

ja.wikipedia.org

 

 

 

そして昨日は、昔のブリュッセル港の跡地めぐり、昔の種子市場の発掘現場の見学。

 

まず港跡地巡り。

集合場所は聖カトリーヌ教会のすぐ後ろにある、まだ小さかったブリュッセルを囲んでいた13世紀の城壁の塔の前。

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案内をしてくれたのは歴史学者さんです。

 

ブリュッセルの街とアントワープのスヘルト川をつないでいたセンヌ川では、商業の規模と船自体の規模が発展することで間に合わなくなり、1600年代に運河が作られ、それに伴ってより大きな港が作られました。

1900年頃まで使われていて、船もいっぱい入ってきていたんだけど、それは今の姿からは想像もできません。

そこを「以前はここが・・・」と案内してもらいながら歩いたわけです。

ある程度は知ってましたが、当然知らなかったこともいっぱいでおもしろかったです。

 

今でも少しだけ水が残してあるところもあります。

 

最初のフォトは、今「魚市場」と呼ばれている大きな広場。

このフォトの右側に入ると、ベギン会跡地です。

ここのベギン会は1250年に作られました。

17世紀、ここが重要な港になった時、ベギン会が土地をいろいろと譲ったとのこと。

今でもバロック建築の教会があります。

 

余談になりますが、その教会はいつも難民の人たちの避難場所になっていて、ここしばらくはベルギーにおけるステイタスを求め、彼らがハンガーストライキをしています。

難民として認めてもらえれば、職業訓練を受けたり、公的な援助を受けたり、正しいやり方で仕事することもできますから。

うちの子供たちが暮らすシェアハウスにも、最近難民として認めてもらい職業訓練を受けているギニア人の男の子が暮らし始めました。

その子がどんなタイヘンな思いをしてきたかは、またの機会に記しますね。

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このあたりが一番大きな船着き場だったところ。

鉄道が敷かれることで役割を失いますが、他の街からブリュッセルにやってくる交通手段でもあった船が、当時は50隻くらい止まっていたそうです。

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この ↑ 一番大きな船着き場から垂直に伸びた道も船着き場で、昔の商人たちのプライヴェートの倉庫が左右に並び、一番奥の大きな倉庫が国所有の倉庫でした。

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1900年頃、この港がつながっていた運河自体が200メートルほど移動され、シャルルロワ運河(シャルルロワは当時の重工業の中心地のひとつ)とつなげられました。

 

 

 

港巡りの後は、昔の種子市場があったところの建物の一つの発掘見学。

その建物はプライヴェートなもので、近い将来ユースホステルになるそうです。

 

案内はふたりの考古学者さん。

 

壁の一番古い部分。

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レンガの部分と、少しアーチを描いた13世紀の城壁の一部だった石の部分があります。

 

この壁 ↓ は、上の部分より後に作られたもの。

まだ剥がしたばかりで詳しい調査は終わっていない部分だそうです。

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この建物、お隣はカフェですが、そこと共有している壁です。

お隣にもこの窓跡が確認されているそう。

 

石を削る際に使われた道具がなんであったか、レンガやそれを積む際につかわれたつなぎの成分や特徴で、いつ作られたか、どこから持ってきた材料か、全部わかるのよ、とのこと。

例えばレンガは、13世紀には一つで3キロだったのが、その後技術の進歩で軽くなり2キロになった、とか。

考古学者の研究は、そういうものを一つ一つ解明していくことで、当時の社会のあり方を明らかにしていくこと。

レンガの重さひとつからでも、当時労働に従事した人々の生活がわかる、と話してくださいました。

おもしろいなあ…。

 

古いものの上に後の時代に重ねられたものも、それが層ごとに語ってくれるものがある、というんで、剥ぎまくっているわけでもないんです。

所有者は、ユースホステルになるときはそういう姿をしっかり持ち味にしたいそうです。

 

 

おもしろい話がいっぱいでしたが、例によって記すエネルギーが尽きてきちゃった。

 

最後の見学の時の二人の考古学者さのうちひとりが、前日の修道院の方でした。

それで前日の疑問の解決ができたのでした。

 

「あ、あの石ね。あの家には若い彫刻家が住んでいてね、彼の作品なのよ」

 

というわけで、メンヒールなどではなく、現代アートでありました。

 

修道院時代に水車があったらしいんで、それに使われたメカニズムの一部か?なんて思ったんだけど、大違いでありましたわ。笑

 

 

考古学デーはしばらく前から毎年行われていますが、去年はコロナ禍でなし。

私自身はそれより以前は仕事で忙しくて、こうやって参加したのは初めてでした。

今年はまだ例年の規模では実施できなかったけど、来年はラボの見学もできるはずよ、とのこと。

来年もどうせヒマだし、また参加したい。

 

主催はここ。

urban.brussels