ふたりの映画監督

一昨日貼り付けた、クレイフィ監督とビットン監督、ふたりの会話をもう1回聞いて、ちょっとばかりメモしたので、アップしておきます。

もっといっぱいいろいろ話しているんだけど、そのうちメモできたほんの少しだけですけど。
聞き間違っていたり、カンチガイしていたりするところもあるかも・・・。
このブログを読まれている方の中には、わたしよりずっとフランス語のわかる方もいらっしゃるでしょうから、「コレはヘン」というところがあったら教えていただけると嬉しく思いますし、「こういう大事なこと言っているよ」というような部分に」気付いていないと言う場合も、やっぱり教えていただけると嬉しく思います。



この画像は、ビットン監督の「壁」のDVDにボーナスとして入れられているもので、クレイフィ監督がビットン監督にインタビューするというカタチになっています。

B・(インタビューが行われている今は)このドキュメンタリー映画を作るためにイスラエルに行って2年、映画が完成して1年経ったけれど、撮影していた頃は、壁が築き始められたばかりの頃で、誰もその意味に気付いていなかったけれど、このプロジェクトが進行して行くにつれ、人々の苦しみはますます大きくなってきていると思う。

K・君はあちこちのいろんな違う社会に暮らすことのできる、大きなチャンスに恵まれた人だと思うんだけど、そういう君がこの「壁」という映画を作ろうと思ったのは何故?

B・この壁の建設というのは、恥ずべきこと、イスラエル人の病だから。
パレスチナ人たちはこの問題では受身の立場にあるんで、この映画で私が描いているのはイスラエル人たち。
壁建設のプロジェクトを知ったその日、その時に、私はこの映画を作ることを決めたのよ。
その決心については、ふたつのアスペクトがあるんだけど、まず、自分は中東に関する仕事をしているということ、二つめは、このプロジェクトによって、自分自身がふたつに引き裂かれたと感じたから。
イスラエルパレスチナユダヤとアラブに。
私はその両方だから。
こういう風に壁で人を引き裂かないで欲しい、もっとも現地で実際苦しんでいる人々から見れば、こんな私の考えなどエゴイストかもしれないけど。

K・イスラエル人は今のこの状況に慣れ過ぎてしまったと思わない?

B・そうなの、慣れる前に映画を作らなければと思って焦ったわ。

K・イスラエルに戻って、このことを議論することはある?

B・あるわよ。初めの頃はこの壁をよしとする人が大多数だったけど、今はその問題を意識する人もだんだん増えてきていると思う。

B・こういう映画を観てパレスチナを発見する、そこまではありきたりのことだし、そういう意味ではこの映画も平凡なものだけど、でもこの映画を作った私という人間がそこの土地の人間だ、というところが非凡だよね。(笑)
生まれはモロッコだけど、11歳の時にイスラエルに移住し、20歳まで、教育もイスラエルのものだったわ。
パリに移ったのが76年。
イスラエル人はパレスチナ人を見ようとしない、信じがたいことに、ユダヤ人以外、全然見ようとしない。

K・僕も、14歳、15歳の頃、外の世界に出ることを禁じられていたから、木も、岩も、山の美しさも、何も見ることができなかったんだけど、あそこを出て8年経ってようやく、少しずつベルギー人へと変化することによって、戻って見ることが可能になったといえる。
ようやくパレスチナを見ることができるようになった、信じられないけど、これが事実。

K・自分はフィルムを回して、自分の愛するものだけを撮り、嫌いなものはそのイメージから取り除いていたんだけど、それがシネマというものの「美」だとも思うし。
ところが、突然それが、エヴォリューションが起きた。

B・イスラエルでは、昔いかに民族が形作られていったか、が話され、そして突然2000年後となる、まるでその間そこには何も存在していなかったみたいに。

K・全ての人々は自分の内部に、人類の時間を持っていると思う、歴史や世代といったものとか・・・

B・それなのに、突然それから切り離されてしまうことによって、「現実」とのコンタクトをなくしてしまう。

K・僕が君の作る作品がすきなのは、その中に、僕達を超えた強いシステムが捉えられているから。

B・うん、それはわかる、カメラというのはすごいものだから。
主体的に撮りながら、他のものが入り込んでくるから。
私たちはものすごいチャンスを手にしていると思うわ。
もし映画がなかったら、私たちにはもうほとんどイメージみたいなものは残らない、シネマ以外のイメージは、政治的なものが入り込みすぎて怪物みたいなもの。
文学はだんだん少なくなってきているけど、シネマはものすごく多く見らているからね。