リルケとロダン

今日から4月25日まで、「エッセンシャルでない」ものを扱うお店はクローズです。

オンラインや電話で予約したり、注文したものをピックアップするのは可能とはいえ、商店にはすごい痛手みたい。

昨日のTVのニュースでおもちゃ屋さんが、

「この≪エッセンシャルでない≫という言葉を聞くたびにいやな気持ちになる。子供たちと過ごすためのおもちゃや、家族が一緒に過ごすためのゲームが、人にとってエッセンシャルじゃないなんて、いったい誰が言えるというのか。」

と、怒りを通り過ぎた悲しい表情で訴えていました。

 

政府の規制も、こちらを立てればあちらが立たず、って感じで、皆が納得するのは不可能。

しかももう1年以上ですからねえ…。

政府に文句言うなら、とにかくこれからの1か月しっかり規制に従って、その結果を見てからにしようよ、なんて思うんだけど、私自身は、経済的には政府の援助で十分すぎるくらい十分なのと、ひとりで籠ることがほとんど苦にならない性格であること、不満と言えば「外食したい」くらいという非常にお気楽な状況にあるので、「だからそんなこと言えるんだ!」と指摘されれば黙るしかないですもんねえ…。

 

ワクチンは、年齢で優先順位を決めるより、社会での活動状況で決めた方がいい時期になったんじゃないか、なんてことまで思い始めました。

でもそうなると、どの職種が優先か、ってんで、またまた大騒ぎでしょうねえ。

とりあえず、学校の先生たちは、年齢に関係なく優先してあげて欲しい。

 

 

 

以前から時々記すことのあった、登録するだけで誰でも無料で聴ける気前のいい王立アカデミーの講義ですが、これもコロナ禍ゆえに全てオンラインとなってます。

以前はブリュッセルで行われるもの以外は、いくら興味のあるテーマでも「出かけてまでは…」と聴いてこなかったんです。

でも今は全部オンラインなんで、どこのでも聴けることになった。

個人的にはすごく嬉しい。

 

一昨日聴いたのはシャルルロアからの発信でした。

テーマが「リルケロダン」で、この二人に関わりがあったことすら知らなかった私はたいへん興味深く聴講し、終わってからしばらくの間コーフン状態でした。笑

ミシェル・アンリの「カンジンスキー論」を引用しつつのアート論。

キーワードは「沈黙」「内在と外在」「Langage 言葉」だったと思う。

 

またまた能力不足で、聴いて感じたこと・わかったことを、ちゃんと文章にまとめて書くのは難しいのでパスしますが、アートというのは「内在するものへ向かうもの」なので、「外在」する言葉による解説を必要とするコンセプチュアル・アートには批判的です。

L'art doit faire l'économie de langage.

 

リルケは éternité と durabilité を区別するべきだと言い、ロダンはあるインタビューに答え、写真で残されたものは immortalisé されたものだけど、自分の作品は éternel mouvement だ、と言ったそうです。

これってたぶん同じことを言ってる。

 

詩って言葉を使うものですが、でも詩における言葉って、言葉で伝えられないことを伝えようとしていることを思えば、ある意味「沈黙」だよなあ、とも思った。

 

谷川俊太郎の、 鳥は空を名づけない 鳥は空を飛ぶだけだ で始まる詩を連想したりもしました。)

 

最後の質疑応答で、インスタレーションやビデオアートといった最近流行りのアートをその中でどう扱うか、という質問もありました。

私もそこらへん気になっていたのに、先生がなんて答えたんだったかちゃんと思い出せない…。

もうその頃は私のエネルギーが尽きていたのか? 悲しい。

かすかな記憶では、やはりコンセプチュアリズムという「沈黙」に対峙するものとも思える、とか、「個」と「普遍」の間では「内」と「外」に違いがある、というようなことを言っていたような…。

 

それにしても、アートと哲学の関係っておもしろすぎますねえ。

 

 

今週は、大学の講義に加え、王立アカデミーの講義をふたつ、CEPのコンフェランスをみっつも聴いちゃったんで、少しフランス語力がアップした気分だわ。

 

大学の美術史の講義は、カラッチ、カラヴァッジョ、ギド・レニを終え、今週からルーベンスについてスタート。

ベルギーにいるとルーベンスはものすごく身近な画家ですが、彼がイタリアのマントヴァ公爵の宮廷画家だったころの作品を観る機会はほとんどないので、これもありがたい。

 

 

超難しいので必ず2回視聴する文学の講義(2回聴けるのもオンライン授業のおかげ)、テーマは「自叙伝」です。

自叙伝とは何か、enfance 子供・子供時代とは何か、に始まり、聖アウグスチヌスの「告白」17世紀の仏語訳、ジェローム・カルダンの自叙伝を読み、来週からジャン=ジャック・ルソーです。

フランス語能力の低さのみでなく、やはり自分の基本的知識が、あっちこっち切り取って脳内に貼り付けているだけの雑学のレベルにすぎない、というのが悲しくも致命的ですが、それでもやはりおもしろく視聴してます。

少なくとも、私にとってムダになることはないと思う。

(今までの人生で学んだことの一つが、出会ったときに気づかなくとも、自分の出会うものごとにムダなものなんてひとつもない、なので。)

私のような年寄り枠の受講生は試験を受けられないことになっているのが、めちゃくちゃめでたい。笑

 

 

 

さて、今日も今朝読んでおもしろかった記事を貼り付けておこう。

spinou.exblog.jp

 

 

それと今朝思ったこと。

 

Twitterで見かけたのですが、報道ステーションで、オリンピック中止あるいは延期の可能性についての質問に、オリンピック相が、
 
「考えてない。私にとってチャンス」
「ホテルなど、これまで準備してきたことを覆すことは難しい」
 
などと言ったらしいですね。
これだけでもあきれるが、さらには、
 
>延期はありえない」何故なら「私の人生は五輪と共に生きてきたから」
 
と言った、と。
 
そのツィートをされた方は、
 
>自分ファースト発言に唖然。音楽と共に生きてきた友達のミュージシャンは予定していた30本のライブが中止。お芝居と共に生きてきた知り合いの役者さんは、出演予定だった大きな舞台、3本が公演中止になりました。
 
と記しておられましたが、ほんとにそう。
 
今さら言うのもバカらしいくらいですが、公と私の区別もつかない者たちが政治をやってる国なのねえ…。
 
もともとそれほどスポーツに興味ないので、軸で表すなら、私にとってオリンピックはもともとゼロ地点にいました。
それが、あそこでやると決まった時点でマイナスの方に動き始め、一連のことでどんどんマイナス方向に沈んでいき、もうコロナ禍の中で沈むスピードが加速、今となってはもうゼロ地点に戻ることは、きっと死ぬまでないでしょう。