考えないといけないことがいっぱいありすぎる

日が短くて、暗い。

ここ数日ほとんどお日さまも照らないんで、よけい暗い。

暗いと何もしたくない。ほんとになーんにもしたくない。

 

それなのに、考えないといけないことや、注視しておかないといけないことがいっぱいありすぎて、困ってしまう。

このブログに、そういうことを忘れないように記しておこうと、しばらく前から思っているんだけど、暗いもんだからその力もわいてこない。

記そうと思うと、人さまが読むこともあるのだから、いいかげんなことは書いてはいけないし、ちゃんと記す前にいろいろと調べて確認もしておかなければ…、なんて考えるので、よけい力が湧いてこない。

 

ベルギーでは、今ちょいと騒ぎになっていることや議論になっていることがいくつかあるんで、そのことを記しておこうと思っているんだけどね…。

そういうわけで、あまり確認もしないまま書くんで、事実関係に間違いがあるかもしれません。

 

日本でも話題になっているイエローヴェストのマニフ。

フランス同様ベルギーでも行われていて、先週の土曜日にも行われ、そして今日も行われました。

先週は破壊行為に及んだ人たちがいたんで、今日はより多くのコントロールが行われたようです。

 

その翌日の日曜日には、地球温暖化に関するマニフが行われ、これはホントに大規模で、ベルギー中から75000人の人がブリュッセルに集まりました。

このときは、国鉄も運賃を安くし、ブリュッセル市内のメトロ・トラム・バスも無料になったので、より人々が集まりやすくなったことも関係しているでしょう。

 

実はその前に、ブラックフライディっていうんで、買い物する人のために国鉄が運賃を安くするというサービスをしたらしい(私はこんなことしてたの知らなかったけど)、そこに環境問題が深刻なテーマになっているこの時代に、こんなことだけに安くするなんてなによ、という批判が起き、それでマニフのためにも安くした、ということらしい。

ブラックフライディなんて、以前は話題にもなってなかったのに、たしかに、何よそれ…、という気がするよね。

 

で、これだけたくさんの人が、しかも非常に平和的に意思表示をしたのに、ベルギーはCOP24の環境問題に関する指令について反対と答えちゃった。

 

これだけの数の市民が意志表明したというのに、政府の態度は何よ、と多くの人が失望し怒っているわけです。

 

ちなみに、イエローヴェストに対して、環境問題でマニフしている人たちは、グリーンヴェストなんて呼ばれてます。

 

そして、あなたはどっち?といった質問に、どちらでもある、という人たちもいっぱいいます。

 

それと、国連による難民に関する協定に関する問題。

この協定に賛成するなんて許さない、と、連立政権のうちの極右に近い片っぽが脅しをかけてきたのです。

もう片っぽの中道右派政党に属する首相が、その協定のためにマラケシュに行こうもののなら、自分たちは連立政権を降りる、とまで脅されてます。

そういうわけで、政府が崩壊するかも、という状況にあるベルギーです。

極右に近いN-VAという政党、その背後には極右のヴラームス・ブラングがいて、実は今、ブラームス・ブラングを支持すると言って、米国のバノンとフランスのル=ペンまでアントワープに来てる状態。気持ち悪すぎる。

 

(ちなみに今この記事を書いている最中、この件に関して、首相の記者会見がライブで中継されているところ)

 

↑ というわけで、今首相の記者会見での発表を聞く限り、

「すでに7月にベルギー国として協定を支持することを表明し、また今回のN-VAの«待った»の後、国会でも協定を支持することが絶対多数によって支持された。私はマラケシュに行く。N-VAは従って政府から退くことになる。」

とのことであります。

 

よく耐えたね、ミシェル首相。

でも、これに堪えられなかったら、この政党に次はないもんね。

堪えるしかあるまい。

 

この件に関しての議会での議論もライブで中継してましたが、そのとき、この協定を批准しないなんて、伝統的ベルギーの国の在り方に反する、と言ってる議員がいて、ちょっと感動しました。

 

さて、上述したような問題と少し異なる、過去を問う問題も。

 

2013年から改修工事に入っていたアフリカ博物館が、またオープンします。

今日が落成式で、明日から一般公開。

Home | Royal Museum for Central Africa - Tervuren - Belgium

 

 これを機会に、ベルギーの植民地政策を振り返る動きがあるのです。

所蔵品を返すべきか、といったことも含めて。

以前は、コンゴの人たちの視点など一切抜きの、偏見に満ちた展示だったのだけど、新しくなった今は、反省の下に大きく変えられたそうです。

 

追記:加えて、これまで全くなかった「女性の視点」もスタッフに女性が加わることでなされた、とのことです。

 

ニュースやドキュメンタリー番組などで、植民地支配していた時の状況が取り上げられています。

 

そういえばずっと前に、MIXIの日記に、レオポルド2世に関して記したことがあったなあ、と思い出し、探してきたので貼り付けます。

中に貼り付けている3つのリンクのうち、今でも読めるのはひとつだけですが。

 

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2005年11月の日記

 

LE ROI BLANC, LE CAOUTCHOUC ROUGE, LA MORT NOIRE

わたしは見ていないんだけど、2日か3日前の夜、arteで放送されたドキュメンタリーのタイトルです。

http://www.arte-tv.com/fr/semaine/244,broadcastingNum=500395,day=7,week=45,year=2005.html

クマが見て、たいへんなショックを受けて、いっぱい話してきかしてくれたのですが、わたしも全然知らなくてショック・・・、ちょっと衝撃的ですが、みなさんにもお話します。

ベルギーの独立は1831年、国としては非常に若いのですが、2代目の王様レオポルド2世の頃が、一番豊かでした。
なぜ豊かだったかというと、ベルギー領コンゴと呼ばれた植民地を持っていたからです。
このコンゴ、実は最初、レオポルド2世個人の持ち物でした。
それを後にベルギーの国のものとしたのですが、ここまでは、一応わたしも知っていたのです。

驚くのはこの王様の支配の仕方。

ある人は、ヒットラースターリンポルポトと並ぶ虐殺者として並べているほどです。

この番組のタイトルは、白い王=レオポルド2世、赤いゴム=生産されアントワープ港に下ろされるゴムは黒人奴隷たちの血で赤かった、黒い死=虐殺された黒人たち、を、それぞれ指しています。

レオポルド2世、反ヒューマニティの罪で、つい最近、裁判にかけられるところを、資料等すべてブリュッセルのラーケンにある王宮で、証拠隠滅のために焼却してしまったらしい。

日本語で検索したら、

http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/searchdiary?word=%a5%e2%a5%ec%a5%eb

こういう日記を発見。
前述のドキュメンタリーの内容と大きく重なっているので、ご覧ください。

ベルギー領コンゴ、「切りおとされた手の国」と呼ばれていたらしいです。
ゴムの生産量が少ないと、奴隷たちは1回ごとに指を1本ずつ切られ、しまいには手を切り落とされてしまい、それでもゴムの木に登って働かなければならなかったらしい。

リベラシオンの記事「切りおとされた手の国」です。

http://home.tiscali.be/be074683/coupees.htm

絶句・・・。

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 ↑ こういうことも含めて、今また皆が過去を振り返っているところです。

 

レオポルド2世のことを書いた日記を探していて、こんなのも見つけちゃった。

 コンゴの話にも通じているし、貼り付けておこう。

 

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 2006年4月、ポルトガルやスペインを家族で旅行したときの日記

 

メデリンの町の丘の上には、14世紀に建てられ15世紀末に修復された教会があって、エルナン・コルテスがそこで洗礼を受けたのだそうですね。
こういう小さな町の地理的構造は、それこそ500年経とうと、ほとんど変わっていないでしょうから、丘の上から町を見下ろしつつ、ああ、コルテスも、こうやって町を眺めたことがあったのだろうと、なんとも言えない気持ちになりました。

そうやってぼうっとしていると、おじいさんがひとり近づいてきて、話しかけられました。
クマが相手をしていましたが、私たちがメキシコにいたこと、長女がメキシコ生まれであることを知るととても喜び、
「コルテスのおかげで、あの連中も、怪物を祭ったりいけにえをしたりするような、恐ろしい信仰から開放されたのだからねえ」
と、誇らしげに語ったりしていました。
それを聞いていた子供たちが、この時代に、まだそのような発想でものを捉える人たちがいるのかと、メデリンを去りながら、たいへんショックな様子でした。

 

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力が湧かないわりにはがんばったぜ。(笑)

 

 

 

第一次大戦終戦記念日

はてなダイアリーから、はてなブログにお引っ越ししました。

めんどくさいなあ、と思いつつも、記事も少ないし案外簡単に終了。

よかった。

タイトルは、ダイアリーの頃のはやたら長くて入力するのがめんどくさい、という怠慢オバサン的理由ゆえに、たんなる「備忘録」ということに。

 

もう数か月前から、PCが「ディスクEの残りスペースが少ない」という警告を発するようになり、いろいろやってみたけど解消の方法なく、なんじゃらほい、これは…と思っていました。

先月やってきた友人に話すと、これってWindows10のアップデートの際のバグだと教えてくれました。

彼女が日本語で解消法を探してくれたけど、こういうことはいつもフランス語でやるんで、日本語だとイマイチわからず…。

次女がうちに来た時その話をしたら、仏語で解消方法を示すサイトを探してくれました。

そしたら意外に簡単。

それでこれも昨日解決。

 

というわけで、お引っ越しもバグ解消も終え、なんだかめでたくて、日記でも書こうか、という気分になった次第。

 

さて、明日は第一次大戦終戦記念日です。

日本では第一次大戦は遠い昔の出来事でしょうが、ヨーロッパではそんなことはなく、毎年大きく取り上げられます。

今年も、ニュースで、あるいはTVのドキュメンタリーで、ここんとこ盛んに話題として取り上げられています。

終戦後100年ということで、今年はいろんなところでいろんな展覧会も行われてきました。

昨日は、大戦で亡くなった兵士の遺骨から、現在のテクノロジーを使えば、生前の体格もわかるし、顔まで再生できるということをニュースでやってました。

そうやって、戦死した兵士のひとりのお孫さんが、一度も会ったことのないお祖父さんの顔を見せてもらって、嗚咽している様子が映されていました。

 

オフィシャルに終戦宣言がなされたのが、1918年11月11日11時。

(ちなみに、11・11・11という、ベルギーの仏語・ドイツ語圏のONGがあります。世界のいろんな問題を取り上げ、よい世界を作ろうという活動を行う、le Centre national de coopération au développement=CNCDという組織の名称なんですが、この名前はこの終戦宣言の日時から来てます。これ↓)

www.cncd.be

今朝の新聞に、11時にあと2分というところで亡くなったカナダ人兵士の記事も載っていました。

https://www.cncd.be/spip.php?page=sommaire

まだ26歳。亡くなった彼のポケットに入っていた、血に染まったカエデの形をしたワッペンがちゃんと残されていて、2001年に甥っ子さんに渡されたそうですが、この方も、明日モンスの近くの墓地で行われるセレモニーに参加されるそうです。

 

そういえば、以前にこんな記事もアップしたんで、それも貼り付けておこう。

shohoji.hatenablog.com

いつもいつも戦争をしていたヨーロッパ、第一次大戦に突入したときは、多くの人が、またかよ、と思いながらも、すぐ終わるだろうと思っていたそうですが、実際は4年も続き、出征した兵士のものすごく多くが亡くなるという、本当に悲惨な結果に。

それで、ヨーロッパ人が「国家」というものを疑うようになった、と。

それでも第二次大戦が起こり…。

それに懲りて生まれた鉄鋼と石炭の共同体、ECに、そしてEUへと発展してきたわけだけど、今はアンチEUの動きも生まれ…。

 

これが人間の本性と思えば、こういう歴史の流れには抗えないのかもしれないけど、それでも、何が起きてどうなったか、振り返ることで、以前に学んだことを思い出せるかもしれない。

アンチEUの動きの原因のひとつとして、各国の教育現場では自国の歴史しか教えず、ヨーロッパ全体の歴史をちゃんと教えていないことがある、と反省されていました。

そういうわけで、去年の夏、新しくEU本部の近くに、ヨーロッパの歴史博物館がオープン。

もうだいぶ前からある、EU議会の博物館、Parlamentarium同様、これも入場無料。

Bienvenue à la Maison de l'histoire européenne | MAISON DE L’HISTOIRE EUROPÉENNE

 

というところで、今ちょいとニュースをチェックしたら、終戦の調印がなされた場所や経過などに関する記事がアップされているんで、今からそれを読むことにしよう。

www.rtbf.be

というわけで、今日はオシマイ。

 

 

 

地方選のこと、旅行したこと、その他いろいろ


月に1回くらいはブログの更新をしようと思ってましたが、前回の記事から3か月も経ってしまった…。

日がどんどん短くなっています。
1日に4分くらいの勢い、もう真っ暗な冬もそこまで来ています。

さて、昨日でサマータイムも終わり、時計の針を1時間戻しました。
日本との時差は8時間です。
昨日のニュースで、こうやって時計の針を戻すのもこれで最後になるかもしれない、と言ってました。
サマータイム制をやめるかどうかは、EU各国、自国の判断に任せるそうで、もしかしたら来年からは、お隣の国と夏の間は1時間の時差ができるかもしれない、とのこと。
サマータイム導入した時も同様だったそうで、例えばお隣のドイツは、ベルギーより3年遅れて導入。
その間は、国境をまたいで仕事をしている人たちは、その1時間の差を考慮しつつ通っていたそうです。

今月14日、ベルギーでは地方選が行われました。
投票はベルギー市民の義務、正当な理由なく投票を怠ると罰金です。
また地方選に関しては、手続きをすれば外国人でも投票の権利があります。
投票場では、英語その他、いろんな言葉が聞こえていました。
ブリュッセルの投票はすべてエレクトロニックです。
私の投票場は近所の学校でしたが、そこのいくつもある投票部屋の中で、私のところだけがインフォルマテッィクのトラブルとかでなかなか中に入れず、人がいっぱい並んでいました。
それでも待たされたのは30分かそこらだったので、まだよかったみたい。
リエージュの方では、何時間もトラブルが解決できなかったところもあったと、その日のニュースで知りました。

選挙の結果は、エコロ(緑の党)の大躍進。
私の住むコミューンでもエコロがトップで、区長はこの党の人になります。
私のまわりの人たちも皆エコロに投票したと言ってました。
この夏の異常な暑さ、水不足、プラスティック問題、その他もろもろ、環境問題を実感しないわけにはいかないからでしょうか。
私の周りの人たちがエコロに投票するのは、今に始まったことではないのだけど。

今月初めに、予定通り日本から友人が遊びに来ました。

まず予定通り一緒にウィーンへ。
エゴン・シーレ展を観にいくのが当初の目的だったんだけど、ちょうど美術史美術館で、ブリューゲル没後450年ということでブリューゲル展がスタートしたところだったので、ラッキーとばかりにこれも鑑賞。

ブリューゲル展、なかなかのものでした。
93点、油・デッサン・版画が展示されていました。
もうきっと私が生きている間に、これだけの作品をいっぺんに鑑賞できるチャンスはないでしょう。
その緻密さと観察眼、それに好奇心に満ちた作品群で、こういう人がもし今、この時代を一緒に生きているとしたら、はたしてどういう生き方をしたでしょう。
この展覧会、1月までやっているので、もう1回、行けるものなら行ってみようかと思います。
朝いちばんの飛行機に乗って、最終の飛行機で帰ってくれば、日帰りだって可能です。

シーレ展は、6月に観たときと入れ替えが行われていました、というか、作品の数が減っていました。
それでも満喫。
やっぱりこの人は天才だと、またまた感じてしまいました。
今回はレオポルド美術館では、モーリッツ・ネールの写真展もやっていて、これが興味深かったです。
私は全然知らなかったけど、よく見るクリムトマーラーヴィトゲンシュタインなどのポートレートなど、すべてこの人が撮影したものなんですね。
ヴィトゲンシュタイン一家とは、親交があったということで、彼らの家の外部・内部の写真もありました。
宮殿と呼ばれるくらいの豪邸だったとどこかで読んだことがあったんだけど、ごてごての装飾など一切ない、非常にモダンなもので、ちょっと感動。
今年からブルガリア文化センターとして開かれたそうなんで、今度行ったらちょいと見てこようか、と。
http://www.haus-wittgenstein.at/

ウィーンの後はプロヴァンスへ出かけました。
エクサンプロヴァンスにアパートホテルを借りて5泊。
小さいけど密度の濃い街。
ゆったりだらだらと満喫してきました。
また来年も来ようか、と話したことでした。


ということで、今日はオシマイ。

暑い


晴天の日が珍しく続くと少しずつ気温が上がり、30度を超える頃に雷雨が来て、またすーっと10℃〜15℃気温が下がり…、というのを繰り返すのが、こちらの普通の夏。
その時期はまちまちで、6月にそういうことがあれば、ああ、これで短い夏が7月にならないうちに終わりかあ、みたいな寂しい気分になったり。

ところが、今年はその晴天が何日も続いていて、暑い。
昨日はブリュッセルでは36℃くらいになり、ベルギー気象台始まって以来の高温を記録したとニュースで言ってました。
夕方雷が鳴り雨が降りましたが、あまり気温は下がりませんでした。
今日また雷雨が来るそうで、明日から少し涼しくなるそうですが。
それでも、来週も25℃くらいの気温らしい。

今日、北海は23℃を記録し、これも気象台始まって以来らしい。

農家は、1976年以来の水不足に悩んでいるそうです。

暑いと言っても湿気が少ないので、日陰にいる分には大丈夫。

私のところは午前中に日が射すので、その間はカーテンを閉めて日陰にしてます。
クーラーも扇風機もありませんが、特に暑さに苦しんではいません。

バカンス期なので、いろんなオフィスも働く人の少ない時期ではありますが、ニュースによると、クーラーのないオフィスでは、暑さを避けるため仕事のスタート時間を早めて、13時には終了して帰宅できるようにしているところもたくさんあるそうです。

今日は、ワロニアの公共のバスの運転手たちが、エアコンなしのバスの運手はできないと、ストしているらしい。

オランダではアスファルト舗装の道路に塩を撒いて、少し温度を下げる工夫をしているとのこと。

猛暑と乾燥で、あちこち火事も起こり、ギリシャでは悲惨なことになりました。

ところで、今日は月食が観察できるらしいですね。
お月さまはうちの窓からちょうど見えるあたりにでるんで、やってくるらしい雷雨がもうおさまっていれば、空気もきれいになってるだろうし、見たいな、と思ってます。


ということで、またまた今朝読んだ興味深い記事のリンクを貼り付けてオシマイに。
この記事に貼りつけてあるリンクを訪ねて、今から読んでみようっと。

https://spinou.exblog.jp/29653114/

いろいろ


西日本の豪雨、たいへんなことになりましたね。
ナガサキの集中豪雨以来の被害だとニュースで言ってましたが、あの時わたしはナガサキにいました。
土曜日でした。
私は製鋼所跡地にある某センターで働いていて、土曜日は2回に1回がお休み。
あの日は仕事に出る土曜日。半ドンなんで、仕事終了後、街でレコード屋をやってた友人の店に遊びに行くか、あるいは映画を観て、それから諫早の家に帰宅するのが習慣だったんだけど、あの日は激しい雨が降っていて、「今日はもう帰るか」とすぐにバスで帰宅。
それが最後のバスでした。
翌日の朝、職場に電話をしたら通じ、事務所が無事だったことを確認、東京の本部と電話が通じないというんで、私がそれを本部に知らせたのでした。
喜ばれました。

道路が決壊して、しばらく仕事には行けず、その後なんとか仕事に出られたときは、ナガサキの従妹んちに泊めてもらい、一緒に混雑する銭湯に行ったのも思い出します。

私は水害がなければ生まれていません。
その話は以前にこの日記に記したのでもう書きませんが。
http://d.hatena.ne.jp/shohoji/20140628/1403945348

大雨に縁があるんでしょうか。

メキシコにいた頃も、旅先のアカプルコとサンブラスで、ちょっとした水害に遭いました。
ベルギーで暮らし始めてからも、プロヴァンスに旅行に行ったら、訪れた町が次々に、私たちが発ったその翌日、水害に見舞われました。

何だか私自身が、水に関しては疫病神っぽいですね。
本人だけはいつも無事だし…。


日本の某首相たちは、もうずっと警戒警報が出されていたのに宴会をやっていたそうですね。
しかも、オウム事件の7人をいっせいに死刑執行の前日でしたか。

この死刑執行、こちらでもずいぶん報道されました。
アベ政権下での執行、29人に上る、今までの政権では最も多いと。

今回はあっちこっちから実況で執行が伝えられたそうですね、まるでスペクタクルのように。

中世かよ、と思ってしまった。

死刑が、見せしめと見世物の両方の意味を持っていた時代みたい。


私はオウム事件が起こった頃はもう日本にいなかったし、オウム真理教ってのも事件で初めて知りました。
なんてひどい事件だろうと思いましたが、同時に、自分と犯人たちは紙一重の違いしかない、とも思いました。
でも、この紙一重が、実はとても大きい、それっていったい何なんだろう、と、ずっと考えてもいます。

イスラム国も、オウム真理教に似てると感じています。
オウム真理教の国際版というかなんというか…。

見世物としての死刑は、処刑される人間の、ハンナ・ア―レントの言うところの「陳腐な凡人の悪」を覆い隠して「特別な悪人」に仕立て上げ、それを見物する人間が「ああ、よかった、私はフツーの側の人間で」と安心できるための装置かもしれない、と思いました。


ということで、今朝一番に読んですごく興味深いと思った記事のリンクを貼り付けて、今日は日記おしまい。

https://spinou.exblog.jp/29607487/

ウィーンに行ってきた


月に1回くらいはブログ更新しようと思っていたけど、もう6月になっちゃいましたね。

今年はエゴン・シーレの没後100年ということで、ウィーンのレオポルド美術館では、彼の特別展が行われています。

毎年うちに遊びに来てくれる大学時代の友だちがいます。
今年も10月にやってきます。
彼女が来るたびに、1カ所か2カ所、一緒にどこか別の街に出かけるんですが、今年はプロヴァンスへ1週間足らず出かけるのは決定していて、すでに航空券も宿泊の場所もゲット。(何でも早くやっておいた方が安いので・笑)
上述の展覧会は、その友達が開催を教えてくれたので、はたしてこれも一緒に行くかどうか、下見に行ってきたのです。

ウィーンを訪ねるのは3回目。
芸術の都と呼ばれるだけあって、見るべきものが多すぎ…、とにかく今回はシーレ展に的を絞りました。
欲張りすぎると、オバサンは疲れてしまうので。
ブリュッセルを6月1日早朝発ち、翌日の夜戻るというフライトで、まるまる二日間楽しむというプログラム。

1日朝10時前には街に着いたので、予約を入れていたホテルに、持ち歩く必要のないものを預かっておいてもらおうと行ってみると、もうチェックインしていいよ、とのこと。
親切。
古い建物で、部屋もすごく狭かったけれど、場所がすごくよくて大助かりでした。
部屋に荷物を置いて、さっそくお出かけです。

アルベルティ―ナまで徒歩3分。
以前デユーラーのデッサンを見たいにもかかわらず、入館するヒマがなかったので、今回は行こうかな、と、レオポルド美術館へ行く前に訪ねました。
結局3時間以上も居座ってしまった。

ベルギーは、フランス革命以前オーストリア大公が治めていたので、そのあたりのかかわりも含めて、なるほど、おもしろかったです。
見たかったデッサンはすべてが展示されているわけではないし、オリジナルは痛まないようにしまってあるのでファクシミリ、だけど、ルーベンスのデッサンに初めて見るものがあるなど、それはそれでとてもよかったです。
それに加え、とても見ごたえのあるキース・へリング展やモネからピカソまでの特別展などなど、なかなかのものでありました。

そして軽くランチを済ませた後、いざ、メインの目的であるレオポルド美術館へ。

シーレ展、すばらしかったです。
ずっと前から大好きなので、今までもかなりの作品を見てきたけど、今回のように体系的な展示の仕方をしたものは初めて。
「子供」「母」「エゴ」「スピリチュアリティ」「ポートレート」といったテーマごとの展示、彼の直筆の詩や手紙、写真などなど、シーレの世界にどっぷり浸れるものでした。

顧客を意識して「売る」ために描いたのでなければ、当時の多くのアーティストのように、「社会問題」にコミットしたわけでもなく、ひたすら「自分自身のみ」に向かった人だと思っていたけど、「自由を求める人たちのために」という彼の詩の中の言葉や、その時代がどのような時代だったかを考えたりすると、ただ自分の世界に閉じこもっていたわけではないんだ、と思えてきました。
(それに、まだ彼は20代の若さだし。)

作品は好きだけど、ご本人さまとは仲良くできないだろな、なんて思ってきたけど、そういうこともないと思えてきたり。

1910年の、ストライプのシャツを着た自画像、グザヴィエ・ドランみたい。(ドランの作品、les amours imaginaires だったか、主人公か誰かの部屋に、たしかシーレの絵が飾ってあったと思う)

ドランみたい


この日は閉館時間までに、他の展示どころかシーレ展も全部鑑賞できなかったので、翌日も開館される時間に即入場して、閉館時間までたっぷりレオポルド美術館で過ごしました。

美術館のカフェは、ギョーザ・ブラザーズとかいう会社がやっていて、寿司やギョーザに加えてカレーライスまでありました。
私はカツカレー食べちゃった。このカツはシュニッツェル!(笑)

もうたっぷり過ぎて疲れちゃったんで、帰りの飛行機に乗るまでビールかワインでも飲んでゆっくりしよう、と思っているところへ、なんと、航空会社から、「フライトがキャンセルになりました。詳細については電話してください」という恐るべきSMSが!!!
電話するも混んでいて係の人がいつまでたっても出ない、これではラチがあかないと、空港行き電車の駅にある航空会社のカウンターへ。

そこでささっとフライトの変更をしてくれました。
ミュンヘン行きに乗り、そこからブリュッセル行きに乗り換えることになったのです。

しかし、乗り換え時間がほとんどないというのに、ミュンヘン行きのフライトが遅れまくりです。
係の人に、大丈夫かなあ?と訊ねると、とにかく到着したら、セキュリティチェックも何もないから、ブリュッセル行きフライトのゲートまで走れ、と…。(苦笑)

同じ目に遭ったのは私だけでなく、あと少なくとも5人はいて、また例によって同じトラブルに見舞われた者同士のソリダリティも生まれ、それなりに楽しかったです。

乗るはずだったブリュッセルエアラインは、こういう短いフライトだと飲み物も食べ物も出ないのですが、ミュンヘンまでのオーストリア航空ミュンヘンからのルフトハンザ、いずれもうんと短いフライトなのに、スナックが出てワインが飲めたので、結局、フライト変更でラッキーしちゃった呑み助オバサンでありました。


というわけで大満足な私、シーレ展の展示物にはいくつか入れ替えも行われるそうだし、10月に友達が来たら、今度は一緒に行こうと、帰宅後即フライトとホテルをゲット。

なんて楽しい余生でしょ。(笑)