物理的には「忙しい」なんていうとバチがあたる程度の忙しさなのだけど、初めての経験っぽい頼まれごとが次々やってくる日々で、気持ち的になんだかソワソワと超忙しい日々であります。
一人暮らしのはずなのに、3女が、居心地がいいのか、やたらここにいりびたっているし・・・。
機会あるごとに、「あのね、ここはママのひとり暮らしのうちなんだよ」と言うんだけど、どこまで実感できているのかは?である。
長女も次女も18歳で大学入学とともに家を出ましたが、それでも、いつでも帰れる「家庭」があったわけなんで、3女くんにも、しばらくの間はそういう場所が必要なんでしょうね。
とまあ、そういう日々ですが、最近読んだ記事で、備忘を兼ねてメモしておきたいものなど、日記に記しておこうと思います。
その記事というのは、世界11月号の、哲学者内山節さんによる「近代世界の敗北と新しいエネルギー」。
今回のフクシマの事故に関して、この方は、「問題は<忍び寄るわからなさ>なのである」と記しておられます。
フクシマの事故で、とてつもないたいへんなことになっているだろうことまで私たちにはわかるけど、それ以上のことはわからない、と。
そして、そういう事態を考えたときに見えてくるものは、私たちの暮らす「近代社会」の構造であると。
18世紀末にマルサスによって書かれた「人口論」を例に取って、その構造を説明されています。
文明の発展により人口が増加し、その結果、農地には限りがあるから、食糧不足が生み出される、という非常に簡単なことが書かれているこの書、当時ベストセラーとなり、今日も読み継がれているわけですが、この否定しようのない論理を、当時の経済学者も、経営者も、労働者も、誰も承認することができなかった、というのも、イギリスの産業革命が軌道に乗り、生産力は拡大、資本主義の台頭がさまざまな矛盾を作り出しながらも、一方で人々に近代の豊かさをもたらしていたからです。
経済学者たちは、「資本主義は無限に経済発展をしていく」ことを信じたいがために、自然が有限だということを認めたがらず、「自然は無限に存在する」こととしたわけです。しかし、それではつじつまが合いませんから、どうしたかというと、その矛盾の解決を、「科学の発展」に丸投げすることとなりました。近代社会は、こういう形で出発したのです。
不都合な問題はすべて、「将来の科学」に委ねられることになったために、問題の解決は専門家が行うこととなりました。そして、私たちは「無責任な受益者」となりました。
問題の解決を委ねられた専門家は、権力を持ち、暴走するようになります。
フクシマの事故が起きる前は受益者だった我々は、事故の後、被害者と転じます。
これが近代社会の構図です。
自然エネルギーを導入していくことは、大切なことであるけれども、この技術にも、おそらく希少元素が必要とされ、結局ここでも資源の限界ということから自由にはなれないわけです。
ここでも再び、「将来の科学」に問題解決を委ねているのではないか、ということは、ここでも近代の構図はそのまま残されています。
権力を持つ専門家、そして無責任な受益者とその被害者、という構図です。
この記事は9ページですが、実はもっと多くのことが詰まっています。
ちゃんと記そうと思うと、いつまでも日記が書き終わらないので、ここらへんで止めにします。
私は、このアパートで一人暮らしを始めるにあたって、電気の供給会社として自然エネルギーを主としているところを選んだり、反原発の記事をフォローしたり、ま、簡単なことだけやっているわけですが、そんなくらいじゃこのものすごく深い問題の解決にはなりませんね・・・。
社会の構造というものを変えるために、果たして私には何ができるのでしょうか・・・。