傷めた膝、こじらせるとイヤなので気をつけつつ動いていますが、ずいぶん回復してきました。
それでようやく宿題を済ませる気力も出てきました。
アノン邸のアノンさんや建築家のことなど、ちゃんと付け加えて記しておこうと思っていたので。
1904年完成。
白いレンガはポーランド製、白いフランスの石とピエールブルーが使われています。
左側に木が見えますが、その先に以前は厩があったそうです。
現在は全く異なる赤いレンガの建物が建っています。
まず、この邸宅の主だったエドゥアール・アノン氏について。
ソルヴェの会社に1876年に入った彼は、フランスのナンシー近郊にある、ソルヴェが発明した炭酸ナトリウムの重要な生産工場に配置されます。
その頃ナンシーは、アールヌーヴォーの中心地とみなされていました。
ソルヴェにおける彼のキャリアは輝かしく、重要な役割を担い、世界を駆け巡ります。
ソルヴェは当時の万博でも貢献しますが、アノン邸の建築家であるジュール・ブランフォーは、万博会場の建築物も多く手掛けました。
そうやって会社での重要な役職の数々をこなすことで、アノン邸建築を賄うだけの経済的余裕を持てたわけです。
彼のお兄さんであるテオドール・アノンは、画家・美術評論家・詩人であり、当時の芸術雑誌において重要な発信者でもありました。
フェリシアン・ロッブスやジェームス・アンソールといったアーティストたちとも親しく、アノン家はこういったアカデミーの人々の集まる場所でもありました。
エドゥアール・アノンは強い好奇心の持ち主でもあり、当時飛躍的進歩を遂げていた写真の分野にも深くかかわっていました。
今はもうほとんど顧みられなくなっていますが、エドゥアール・アノンは非常に優れた写真家でもあり、ベルギー写真協会の設立者のひとりだったんですが、その時はまだ21歳の若さでした。
1894年に行われたパリのフォト・クラブのエクスポジションでは、ベルギーから参加した5人のひとりで、金賞を受賞しています。
彼は対象を瞬間的にとらえ、オリジナルな切り取り方をする写真家で、同時期に米国で活躍を始めたアルフレッド・スティールゲッツ(調べたら、この方、アントワープ近郊のホーボーケン生れだった)と並ぶクオリティーを持っています。
かれの作品が、私の持ってる本に載っていました。
パリのオルセ美術館も2点所有しているそうです。
そのうちのひとつをNet上から拝借。
内部のフレスコを描いたアーティストは、ポール=アルベール・ボードゥアン。
このポートレートも、エドゥアール・アノンが撮影したものです。
ルーアン生れ、パリで学んだ人。
装飾絵画の分野へと進みます。
エドゥアール・アノンといかに接点を持ったかは不明。
1903年に何回か作品についてアノン氏と協議を重ね、同年12月にエスキースをアノン氏に送った後、4月にアノン邸装飾のために到着。
階段やスモーキング・ルームのフレスコは≪生きる喜び≫をテーマにしているそうです。
そして建築家、ジュール・ブランフォー。
このポートレートもアノン氏が撮影しています。
ブリュッセルに生まれ、ブリュッセルで亡くなった人、ゲントとブリュッセルで学んでいます。
ブリュッセルの様々な邸宅を手掛けています。
エドゥアール・アノンの友人でもある。
エミール・ガラやルイ・マジョレルの装飾や家具を用いています。
アノン邸は角のにあるので、光を多く取り入れることができるよう、丸いデザインになっています。
外部の下部の装飾を手掛けたのはヴィクトール・ルソー。
ステンドグラスを担当したガラス職人は、フランス出身でブリュセルに根を下したラファエル・エバルドル。
ティファニーのガラスを用いました。
(ティファニーのガラスは、アールヌーヴォーの建築家に、その輝きでとても好まれました。)
他にも、ヴィクトール・オルタはじめ、アールヌーヴォーの建築家と仕事をした人です。
ということで、いくつか読んでおもしろかったり気になった記事など、いくつか貼ってきます。
これ ↓ 去年のものですが。
そして、昨日のニュースで「えっ」と思ったもの。
2025年に原発ゼロにすることになってるんだけど、原発で働く人たちが職を失うっていうんでデモ。
彼らは、そうなると国外から電気を買うことになる、国内で供給できるだけの電気をつくらないと、と、ちょっとモットモっぽいことを言うんだけど、でも、それとこれとはまた別々に詰めていかないといけないことなんじゃないの?と思う私。
今だってほとんど稼働してないわけだし…。
ということで、今日はオシマイ。